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NHKドラマ「坂の上の雲」の歴史認識を問うー2010 [明治以後・国内]

4874984436.jpgNHKドラマ「坂の上の雲」の歴史認識を問う
副書名 日清戦争の虚構と真実
著者名1 中塚 明 /著  
著者名2 安川 寿之輔 /著  
著者名3 醍醐 聰 /著  
出版者 高文研
出版年 2010.6
ページ数 183p
大きさ 19cm
一般件名 日清戦争(1894~1895)
個人件名 司馬 遼太郎
内容紹介 日清戦争は「少年の国」日本の「祖国防衛戦争」だったのか? NHKドラマ「坂の上の雲」のウソ・誤りの指摘を通して、日清戦争とはどんな戦争であり、その本質は何だったかを考える。
NDC分類(9版) 210.65
ISBN 978-4-87498-443-7
目次
1 明治の日本ははたして「少年の国」だったのか
2 日清戦争ははたして「祖国防衛戦争」だったのか
3 伊藤博文は「臆病なほどの平和主義者」だったのか
4 東郷平八郎はなぜ「高陞号」を撃沈したのか
5 NHKドラマ「坂の上の雲」が描かなかったものは何か
6 日本は下関講和会議で何を得たのか
7 秋山好古の尊敬する福沢諭吉は、はたして「一身独立」を説いたのか
8 いま「坂の上の雲」を制作・放送するNHKの社会的責任
著者等紹介
中塚明[ナカツカ アキラ]
1929年、大阪府生まれ。奈良女子大学名誉教授
安川寿之輔[ヤスカワ ジュノスケ]
1935年、兵庫県生まれ。名古屋大学名誉教授
醍醐聰[ダイゴ サトシ]
1946年兵庫県生まれ。元東京大学大学院経済学研究科教授(2010年3月退職)、NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同代表(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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昭和天皇の終戦史 [明治以後・国内]

5fc.jpg昭和天皇の終戦史
 著者 吉田 裕 ヨシダ・ユタカ 
出版者 岩波書店 岩波新書 新赤版 257 
出版年 1992.12
ページ数 246,6p ISBN 4-00-430257-9
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館 S/210.7/ヨシ/
1990平成2年11月7日、元宮内省御用掛の寺崎英成テラサキ ヒデナリ の遺族のもとに、昭和天皇の「独白録」ともいうべき記録がのこされていたと報じれた報道では、この記録「独白録」は昭和天皇が敗戦直後の一九四六昭和21年三月から四月にかけての時期に、寺崎をはじめとした五人の側近たちの前で、戦争の時代を回顧して語った内容をそのまま記録した史料。「独白録」の内容自体によつて、初めて明るみに出された歴史的事実はほとんどないといってもよい。
 多くの報道が、「平和のために苦悩する天皇」という文脈だけから「独白録」を読みこもうとしていた。しかし、「独白録」が作成された四六年の初頭は、天皇制の存続や天皇の在位そのものが危ぶまれるという危機的な政治状況のなかにあった。そうした情勢のなかでの独自の政治的文脈をまったく無視して、「独白録」の内容を論じてみてもあまり意味はない。なぜなら当時の昭和天皇はいまだ四〇代半ばの壮年期にあり、若くそして精力的な君主として、まさに、そうした政治史の渦中にあった人物だったからである。
 著者 吉田 裕は、八九年にアメリカに留学して東京裁判関係の在米資料を調査した時の経験から、従来の東京裁判論とはことなる新しい見方が必要であると強く感じるようになっていた。多くの日本人容疑者が尋問に対してきわめて協力的だっただけでなく、日本が戦ったあの戦争をいささかも弁護することなしに、逆に日本を破滅に導いた戦争責任者として、特定の人物を名指しにさえしていたからである。そこには、明らかに集団としての隠された意図のようなものが感じられた。東京裁判を「文明の裁き」とか「勝者の裁判」とか一方的に断定するまえに、そこに日本側の「政治の論理」がいかに介在しているのかを具体的に明らかにすること、それが占領期研究の大きな課題ではないかという思いが強くなっていった。
 「独白録」を検証し、関連資料を読みすすめるなかで、この「独白録」は、昭和天皇の個人的な回顧談などではない。このとき天皇はまぎれもなく  、ー個の政治的主体として行動しており、さらに天皇をとりまく側近たちの水面下におけるさまざまな政治工作とあわせ考えることによって、初めてこの文書の本質がみえてくる、わたしはそう感じた。
 本書では、戦前・戦後の天皇をめぐる政治史を視野に入れながら、敗戦直後の政治情勢のなかで「独白録」がどのような位置を占めているのかを具体的に検討する。
年表03.jpg目次
序 「天皇独白録」とは何か
1 太平洋戦争時の宮中グループ
2 近衛の戦後構想
3 宮中の対GHQ工作
4 「天皇独白録」の成立事情
5 天皇は何を語ったか
6 東京裁判尋問調書を読む
7 行動原理としての「国体護持」
結 再び戦争責任を考える
著者等紹介
吉田裕[ヨシダユタカ]
1954年埼玉県に生まれる。1977年東京教育大学文学部卒業。専攻は日本近現代史。現在、一橋大学社会学部助教授
※書籍に掲載されている著者情報

 著書―『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)
    『徹底検証・昭和天皇 「独白録」』(共著,大月書店)
    『日本の軍隊』(岩波新書)
    『日本人の戦争観』(岩波現代文庫)
 編著―日本近代思想大系 『軍隊 兵士』(共編,岩波書店)
書評 より
 終戦時における天皇・軍部・宮中等それぞれの思惑とその結果が、解禁された資料に基づき、客観的かつ多面的に分析されている。
日本側として終戦時に最優先されたのが「国体護持」。
アメリカ世論は、天皇制に対して厳しい見た方をしていたものの、アメリカ政府は以下の理由により天皇制の継続を指示した。
・日本の降伏がアメリカ側の予想より数ヶ月早まったために、十分な軍政要因が確保できなかったこと
・天皇の命令によって日本軍の武装解除が迅速に行われたのをみたアメリカ側が天皇の権威を再認識しこと
・アメリカ国内の世論に配慮して、占領コストの節約を意図したこと
アメリカ政府は「天皇制を支持しないが、利用する」政策を採用した。
ただ、これにより天皇の戦争責任を不問にするという結論には達してはいなかった。
日本側は、戦争責任を被る人間を最小限に留めるために、一部の人間にそれを丸抱えさせようとした。
その矛先が、東条英機をはじめとした陸軍幹部である。
これは、先のアメリカ側の思惑と一致する部分であり、この方向性が戦後処理のコンセンサスになった。
もちろん、天皇の了解なしに陸軍が全てを掌握していたことは考えにくい。
当然天皇個人に責任を追求する動きもあったが、「天皇はあくまで政府の決定を承認する立場で、力をもった軍部へ異を唱えればクーデターが起こりうりさらに深刻な危機を招く危険性があった」といったような理屈がそれを制した。
また、日本は本土決戦前に降伏をしたことで、軍政要員が送り込まれるまでの間に機密文書を処分することができた。
それにより、決定的な証拠を隠滅することができた。

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マッカーサーの繁栄システム ;「憲法改正」は、日本を滅ぼすー2017年刊 [明治以後・国内]

71kTM-qNnCL.jpgマッカーサーの繁栄システム 「憲法改正」は、日本を滅ぼす
著者 阿吽 正望   アウン, セイボウ
出版社: 七つ森書館
発売日:2017/07/12
サイズ:19cm/317p
ISBN:978-4-8228-1781-7
内容説明
マッカーサーに学ぶ繁栄国の作り方と、戦後改革に学ぶ現代国家の経営。

第二次世界大戦後、「日本国憲法」が次世代の経営理念を定め、マッカーサーが構築した国家経営システムが、焼土日本に最速の経済発展を作り、国民が豊かに暮らす奇跡を作り出したことを論証する。
国家破綻が危惧され、「憲法改正」が議論される2017年現在、主権者である国民への提言の書です。

著者について

1953年 茨城県生まれ。
社会システム研究者 元公立小中学校教員。


目次
始めに──戦後日本の奇跡
第一章 壊れた社会
81nMNXS+k2L._AC_UY218_.jpg 一 人を壊す教育
 二 秩序を壊す司法
 三 盗む政府
 四 失われた市民自治
第二章 マッカーサーの民主革命
 一 敵国民を救う元帥
 二 繁栄システムの構築
 三 戦後改革の功績
第三章 帝国政治の復活
 一 帝国官僚の復権
5125C4XDHHL._AC_UY218_.jpg 二 官僚統治への退行
 三 戦時経済と貿易戦争
第四章 第二の占領
 一 米国の対日反撃
 二 経済と教育の破壊
 三 奪われる国
 四 病弱社会
第五章 民主政治と日本
 一 イカサマな民主政治
 二 民主政治の発展
 三 民主社会の幸福
 四 日本人と民主主義
第六章 エリートの悪徳
41Iis0d0XmL._AC_UY218_.jpg 一 危険な官僚組織
 二 イカサマ法治主義
 三 隠される悪政
 四 エリートの大罪
第七章 知識時代の経営
 一 『断絶の時代』
 二 知識社会の教育
 三 組織社会の経営
 四 新時代への経営改革
第八章 幸福社会の再建
 一 奇跡の繁栄システム
 二 幸福経済の仕組み
 三 日本国憲法の正義
 四 幸福システムの再稼働
第九章 破滅か! 再生か!
91wfoVMlcsL._AC_UY218_.jpg 一 盗賊支配国
 二 大きな嘘
 三 国家経営の現代化
 四 民族の選択
終わりに──教育が教える真実


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1949年の大東亜共栄圏: 自主防衛への終わらざる戦い ーその⓶ 戦い続ける「軍資金」は、何処から?? [明治以後・国内]

949年の大東亜共栄圏: 自主防衛への終わらざる戦い (新潮新書 173) 著–有馬 哲夫 - 2014/6/16刊行

新潟市立図書館 亀田館 収蔵
内容紹介
帰国した大本営参謀、軍人や児玉誉士夫らは、「この国を守る・理想」の実現を諦めずに戦い続けた。ある者はアメリカと手を結んで反共活動に身を捧げ、ある者は日本軍復活のために奔走し、ある者は政界工作に突き進んだ。

戦い続ける「軍資金」は、何処から?? 大日本帝国は敗戦で消滅している。

目次には 第四章 国粋主義者たちの祖国再建―四枚目の絵

数々の秘密工作に関与してきた児玉誉士夫。  自らの潤沢な資金を背景に天皇制保持のための戦いを開始した。
とあり記載されているらしい。 
プロローグには、 「四枚目の絵の主人公は、児玉誉士夫。戦時中に児玉機関のトップとして海軍航空本部のためにタングステンなどの物資調達に辣腕を振るった彼は、戦後は物資調達によって蓄えた巨額の資産から鳩山一郎に自由党の創設資金を提供し、自由党やそのあとの自由民主党の領袖たちに大きな影響力を及ぼした。その彼がどのような思想をもとに、戦後の秘密エ作に関与していたのかについては第四章で述べる。」
この本では、「アメリカの情報公開法によって C I Aが公開した文書で、その中味は C I C 〔防諜隊、保安を担当した G — 2の下にあった組織〕、 C I S〔民問情報局〕、O S I〔空軍情報局〕、C I A〔中央情報局〕などが作成した文書」を使っている。。
51bSUlz3X3L._SY291_BO1,204,203,200_QL40_ML2_.jpg
41頁
児玉はもともと国粋主義の運動をしていて、【タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を中国で買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもった上海に設けられた店】児玉機関を作る前から、自らの思想を宣伝するためのプロパガンダ紙『やまと新聞』を持っていた。
wikipedia より
児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金を有するに至ったと言われている[巣鴨拘置所での1947年4月21日付取調べによると、児玉機関の資産の総額は当時の日本円に換算して7000万円あったという。また、資産の2/3を吉田彦太郎に与えたとしている。 有馬哲夫『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』文春新書 2013年 p.82. ]。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン[児玉のタングステン保有状況は、OSS・米軍戦略情報局の1943年12月14日付調査報告書に詳細な記述がある。] 鉱山を管轄下におさめ[所有していたという鉱山は、有馬哲夫『児玉誉士夫-巨魁の昭和史』文春新書 2013年 p.48 ]、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた[『軍隊なき占領-ウォール街が「戦後」を演出した』 新潮社 1996年12月 p.100.]。
続く

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1949年の大東亜共栄圏: 自主防衛への終わらざる戦い (新潮新書) –有馬 哲夫- 2014/6/16刊行  その① [明治以後・国内]

51gOPreEf9L.jpg949年の大東亜共栄圏: 自主防衛への終わらざる戦い (新潮新書 173)
著–有馬 哲夫
 253頁
- 2014/6/16刊行

新潟市立図書館 亀田館 収蔵
内容紹介
「この国を守る」――そう信じて戦い続けた男たちがいた。帰国した大本営参謀、軍人や児玉誉士夫らは、「理想」の実現を諦めずに戦い続けた。ある者はアメリカと手を結んで反共活動に身を捧げ、ある者は日本軍復活のために奔走し、ある者は政界工作に突き進んだ。その活動はいつしか、東アジア全体へと波及していく。CIA文書など発掘資料をふんだんに使いながら描く、戦後の裏面史。CIA文書など発掘資料をもとに描く驚愕の昭和裏面史。
【アメリカの情報公開法によって C I Aが公開した文書で、その中味は C I C 〔防諜隊、保安を担当した G — 2の下にあった組織〕、 C I S〔民問情報局〕、O S I〔空軍情報局〕、C I A〔中央情報局〕などが作成した文書。G-2 占領軍にあって保安とインテリジェンスとカウンター・インテリジェンス(スパイ対策等)を担当した部局】

戦い続ける「軍資金」は、何処から?? 大日本帝国は敗戦で消滅している。

目次からは

第四章 国粋主義者たちの祖国再建―四枚目の絵
数々の秘密工作に関与してきた児玉誉士夫。
自らの潤沢な資金を背景に天皇制保持のための戦いを開始した。
に記載されているらしい。 検討しよう。
目次
第1章 敗れざる者たち―一枚目の絵
第2章 国民党の参謀となった大本営参謀―二枚目の絵
第3章 国防再建と秘密機関―三枚目の絵
第4章 国粋主義者たちの祖国再建―四枚目の絵
第5章 「国際義勇軍」と警察予備隊―大きな絵
第6章 宇垣派を分裂させた朝鮮戦争―分かれていく絵
第7章 遠ざかっていく自立自衛―絵にならなかった絵
第8章 しのびよる戦後―フェードアウトする絵
著者等紹介
有馬哲夫[アリマテツオ]
1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。93年ミズーリ大学客員教授



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明治大帝の誕生 -帝都の国家神道化 [明治以後・国内]

489830.jpgタイトル1 明治大帝の誕生 
副タイトル1 帝都の国家神道化
著者1 島薗 進 /著  
出版年 2019.5
出版者 春秋社
読まずに覚え書
明治天皇は外傷なしで死んでいる。宮内庁が編纂した伝記『明治天皇記』によると、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。
 持病とされる糖尿病が悪化して尿毒症を併発したため、心臓麻痺を起こした。明治天皇が崩御したのは、1912(明治45)年7月30日午前0時43分。満59歳。体重約80kg。身長170㎝。BMIは27.7、肥満1
生物学の「分解」研究によれば、 《生き物はどのように土にかえるのか 著者 大園享司 発行・発売 ペレ出版 ISBN 978-4-86064-533-5》 
毎日の平均気温を合計したものを積算温度。 これが死体・遺体の分解速度によく合致してる。ヒトの遺体は、皮膚が膨れる・膨潤段階に積算温度400℃。ヒトを含め、動物は死ぬと 24時間以内に、からだを構成する細胞が分解し始めます。「自己消化」、あるいは「自己融解じこゆうかい」とよばれるプロセスです。自己消化によって、ガスが発生。遺体は皮膚でおおわれているため、ガスはすぐには体外に抜けません。このため腹部にガスがたまり、からだがふくらむ。
明治天皇は、7月30日から毎日の平均気温が30℃なら、400/30=14日後までは皮膚が膨れた膨潤死体・遺体であっただろう。7月31日から8月13日にかけて、明治天皇は櫬殿しんでんと仮に名付けられた宮城内に置かれてるが、明治天皇は皮膚が膨れた膨潤死体・遺体である。女官たちは1日3度、供御くごと呼ばれる食事を天皇の膨潤死体・遺体におそなえした。
分解段階には、積算温度1285℃かかる。皮膚が膨潤に酎え切れなくなり、裂け目が入り、ガスがそこから抜ける。また、裂け目からは、体内にたまっていた腐敗液が流れ出る分解段階に、明治天皇の遺体は8月14日から入ってる
8月14日から、毎日の平均気温が30℃だったとすると、積算温度1285℃には43日。8月13日から、天皇の遺体は皮膚に裂け目が入り、ガスがそこから抜け、体内にたまっていた腐敗液が裂け目から流れ出る分解段階で、柩がらガスが漏れ、柩の中は腐敗液が満ちていたろう。殯宮ひんきゅうとよばれた正殿の間に棺は安置されてる。分解が3分の2ほど進んだ、大喪の9月13日の朝、権殿かりどのと呼ばれることになった宮中桐の間に明治天皇の御み霊代たましろが奉安される。(1年後、宮中三殿の皇霊殿に祀られるまで天皇の聖霊が仮に宿る場とされた。)
長く仏教で葬られてきた天皇の葬儀としては、神式はまったく新しいもので、明治天皇が最初であった。
13日夜8時に葬送の鹵簿ろぼが宮城を出て二重橋を渡り、馬場先門から青山練兵場の葬場殿へと向かった。葬送の行列には1万人を超える儀仗兵、皇族、文武高官が加わり、沿道には2万4千人近くもの兵士が並んだ。
葬場殿は鳥居の向こうに建てられた木製の仮の神殿で、祭官長・鷹司煕通ひろみちの祭詞と玉串奉奠に始まる神道形式の葬儀が執り行われた。天皇の葬儀は長く仏教で葬られてきたので、神道形式の葬儀は明治天皇が最初であった。
初めての神道形式の葬儀が終わると、天皇の棺は霊柩列車に乗って京都へと運ばれた。桃山駅仮停車場に到着した天皇の柩は葱華輦そうかれんという乗り物に移され、慣例のとおり比叡山麓の八瀬村の八瀬童子52名に担がれ運ばれて、伏見桃山陵に埋葬された。。
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やりなおす戦後史ー2015年 その⑤ I shall return [明治以後・国内]

やりなおす戦後史  著者 蔭山克秀 /かげやま・かつひで 
出版年 2015.7  出版者 ダイヤモンド社  ページ数 311p 大きさ 19cm
ISBN 978-4-478-06565-5
新潟市立図書館収蔵  NDC分類(9版) 210.76

著者紹介 蔭山克秀 年齢不明 愛媛県出身。代々木ゼミナ-ルで圧倒的な人気な民科№.1講師。
抜粋して掲載したWeb https://diamond.jp/articles/-/75746  より
マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官でフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。
700-Bataan_Death_March_2017_stamp_of_the_Philippines.jpg
《内はニジヤ挿入 
《3月20日に南オーストラリア州のアデレード駅に到着。、マッカーサーは有名な宣言を出した。
私はアメリカ大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアに行けと命じられた。その目的は、私の了解するところでは、日本に対するアメリカの攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンの救援にある。私はやってきたが、必ずや私は戻るだろう。(I shall return .)
「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」との批判には「アメリカ大統領から命じられた」と言い訳をしている。「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこないマッカーサーを揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた。
^ (リパブリック讃歌の替え歌)ダグアウト・ダグ・マッカーサー 岩の上に寝そべって震えてる。どんな爆撃機にも突然のショックにも安全だって言うのにさ。ダグアウト・ダグ・マッカーサーはバターンで一番うまいもの食っている。兵隊は飢え死にしようってのにさ。
オーストラリアで南西太平洋方面の連合国軍総司令官(Commander IN Chief, SouthWest Pacific Area 略称 CINCSWPA)に就任したマッカーサーは、オーストラリアにはオーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた「神よあわれみたまえ」」と立ち会った人が回想している。
マッカーサーはオーストラリアに脱出しても、全フィリピン防衛の指揮権を残してきたジョナサン・ウェインライト少将に渡すことはせず、6,400kmも離れたオーストラリアから現実離れした命令を送り続けた。、ウェインライトに「いかなる条件でも降伏するな、食糧・物資がなくなったら、敵軍を攻撃して食糧・物資奪取せよ。それで情勢は逆転できる。それができなければ残存部隊は山岳地帯に逃げ込みゲリラ戦を展開せよ。その時は私は作戦指揮のため、よろこんでフィリピンに戻るつもりである」という現実離れした命令を出そうとした。マーシャル陸軍参謀総長に、却下されている。
続く

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やりなおす戦後史ー2015年 その④ 魚雷艇の艦隊 [明治以後・国内]

やりなおす戦後史  著者 蔭山克秀 /かげやま・かつひで 
出版年 2015.7  出版者 ダイヤモンド社  ページ数 311p 大きさ 19cm
ISBN 978-4-478-06565-5
新潟市立図書館収蔵  NDC分類(9版) 210.76

著者紹介 蔭山克秀 年齢不明 愛媛県出身。代々木ゼミナ-ルで圧倒的な人気な民科№.1講師。
抜粋して掲載したWeb https://diamond.jp/articles/-/75746  より
マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官でフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。
pt-41.jpg
《内はニジヤ挿入 
《マッカーサーは命令違反を犯し軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退き、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした。
 マッカーサー大将が脱出を迷っている間にも戦局は悪化する一方で、飢餓と疫病に加えアメリカ・フィリピン軍の兵士を苦しめたのは、日本軍の絶え間ない砲撃による睡眠不足であった。もはやバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかった。
 マッカーサー大将の司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。マッカーサー司令部は継続して「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将はフィリピンにおける日本軍の総司令官本間雅晴中将はハラキリしたとの報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は山下奉文である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった。
コレヒドール要塞にはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、金や銀を運び出していた。その潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサー大将は生まれついての閉所恐怖症であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャル陸軍参謀総長に申し出し許可された。マッカーサーは、魚雷艇でミンダナオ島に脱出する事とした。3月11日にマッカーサーとジーン・マッカーサー夫人、アーサー・マッカーサー IV (彼らの 4 歳の息子)と使用人アー・チューが搭乗するPT-41(英語版)とマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ばれ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった。
4隻の魚雷艇隊は800kmの危険な航海を無事に成し遂げミンダナオ島に着き、ここからボーイングB-17でオーストラリアまで10時間かけて飛行し、次いでは列車で移動し、3月20日に南オーストラリア州のアデレード駅に到着。、マッカーサーは有名な宣言「I shall return  必ずや私は戻るだろう」を出した。
続く

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やりなおす戦後史ー2015年 その③バターン半島に取り残した兵士約7万 [明治以後・国内]

やりなおす戦後史  著者 蔭山克秀 /かげやま・かつひで 
出版年 2015.7  出版者 ダイヤモンド社  ページ数 311p 大きさ 19cm
ISBN 978-4-478-06565-5
新潟市立図書館収蔵  NDC分類(9版) 210.76

著者紹介 蔭山克秀 年齢不明 愛媛県出身。代々木ゼミナ-ルで圧倒的な人気な民科№.1講師。
抜粋して掲載したWeb https://diamond.jp/articles/-/75746  より
マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官でフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。
philippine1_007.jpg
《内はニジヤ挿入 
《大日本帝国陸軍は1941年12月10日にルソン島、22日にる第14軍主力の第16師団と第48師団の2個師団約4万が上陸。マッカーサー大将は、「日本軍の陸軍、海軍機あわせて751機が飛来し、彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下にあった」「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と実際とは異なる妄想報告をしている。
バターン半島に、我先に逃げ出した10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。1月6日にバターン半島に撤退を完了した。
 ルーズベルト米大統領は「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じることは、白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」としてマッカーサー大将に脱出≒米比軍の大日本帝国陸軍に降伏を命じなかった。
 1941年12月22日から1942年1月14日に、開戦2週間後にワシントンD.C.で米国ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相のアルカディア会談が開かれた。席上、合国統合戦略計画「ABC-1」として、大西洋、太平洋の二正面で戦うが大西洋側への攻勢を優先すると合意した。投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められた。ヨーロッパを最初の戦略目標とし、最初の打倒目標はナチス・ドイツであるとした。この頃にナチス・ドイツに対抗しウラニウム爆弾・原爆の製造を、アメリカは始めた。
Sir_Winston_Churchill_-_.jpg 南西太平洋戦域で展開する対日本戦は、ABDA司令部(American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, ABDACOM 、米英蘭豪司令部)の設置し対処する。この海域・戦域には、大日本帝国海軍に対抗できる戦力が残存してなかったから、司令部の役割は「時間稼ぎ」だとルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は理解していた。当時の参謀本部戦争計画局次長・アイゼンハワー(後の34代953年1月20日 - 1961年1月20日米大統領)は「上層部がアジアで日本軍の進撃を食い止めることを軽視している。」と評している。、
 11月以降に作られた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、全て日本軍に接収された。中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所から米が米比全軍の4年分の食糧にあたる量が日本軍に渡った。これで日本軍4万人の兵食は手当てできた。
 バターン半島の食糧など備蓄は、4万の兵士半年間分が消費量が蓄積されていたが、兵員。市民・文民ら10万人以上が立て籠もるのだから、米比軍は日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れた。約一月後、42年には収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった
日本軍の進撃で直接の脅威を受けることとなった白人国家オーストラリアが、北アフリカ戦線に送っている3個師団の代わりに、アメリカがオーストラリアの防衛を支援して、担って欲しいとの要請があり、その司令官として英国首相チャーチルがマッカーサーを指名した。それに基づき、名目に1942年2月21日、ルーズベルトはチャーチルからの求めや、マーシャルら陸軍の説得を受け入れマッカーサーにオーストラリアへ脱出するよう命じた。》
続く

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やりなおす戦後史ー2015年 その⓶『空飛ぶ要塞』爆撃機B-17の集中配備とマッカーサー大将 [明治以後・国内]

やりなおす戦後史  著者 蔭山克秀 /かげやま・かつひで 
出版年 2015.7  出版者 ダイヤモンド社  ページ数 311p 大きさ 19cm
ISBN 978-4-478-06565-5
新潟市立図書館収蔵  NDC分類(9版) 210.76

著者紹介 蔭山克秀 年齢不明 愛媛県出身。代々木ゼミナ-ルで圧倒的な人気な民科№.1講師。
抜粋して掲載したWeb https://diamond.jp/articles/-/75746  より
マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官でフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。
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《内はニジヤ挿入 
《第二次世界大戦が欧州で1939年に始まってからも、主に予算不足が原因でフィリピンの現戦力では、大日本帝国と戦争を行うのは困難であると米国政府・ワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、1941年7月にルーズベルト米大統領の要請を受け、現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官に中将に昇進し就任、開戦後の12月18日に大将に昇進した。
 1941年、米国ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言した。フィリピン軍歩兵の装備の充実が図れた。またアメリカ陸軍航空隊がフライングフォートレス(Flying Fortress)『空飛ぶ要塞』と誇っていた大型爆撃機B-17の集中配備を計画した。計画では74機のB-17を配備。B-17にはフィリピンと日本を往復する航続距離は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、ソビエト連邦のウラジオストクまで飛んで給油し、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいとにジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は考えていた。マッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(B-17を配備され)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べている。1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸の埠頭に山積みされていた。増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れれば、戦力が充実し、大日本帝国軍より防衛できる。
マッカーサーは優勢な航空兵力と15万の米比陸軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持った。それでマッカーサーは上陸してくる海岸の水際撃滅を執り、積極的な防衛戦を行う新戦略に変えた。1941年10月にレインボー計画が改定(RAINBOW 5)されたとき、マッカーサーは見直しを要求し、フィリピン全土の要所に兵力を配置する積極的な防衛策に転換させた。
それで10月以降に、兵食などの物資を海岸により近い平地に輸送・集結した。
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1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワイ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。9日11時からB-17はクラークフィールド空軍基地で、台湾空襲の爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機90機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊が奇襲した。零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合計106機が襲撃。アメリカ極東空軍は、12月10日頃までに10機前後になり、壊滅した。
続く

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