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黄泉の犬  藤原 新也 /著 [新潟水俣病、資料]

51t9kECRtKL.jpg黄泉の犬
著者名1 藤原 新也 /著  
出版者 文藝春秋
出版年 2006.10
ページ数 314p
大きさ 20cm
シリーズ名1 文春文庫
シリーズ番号1 ふ10-5
出版年 2009.12
ページ数 355p
NDC分類(9版) 914.6
ISBN 4-16-368530-8
文春文庫
ISBN 978-4-16-759105-2

新潟市立図書館収蔵
内容紹介
「僕は今までそれを語ろうとしなかった…」。青春の旅を記録した『印度放浪』から34年―長きにわたり著者が封印してきた衝撃の体験が、ついに明かされる!
「オウム真理教の何が若者たちを惹きつけたのか」という疑問を糸口に、かつてインド、チベットを放浪した著者が独自の宗教観を展開する。『週刊プレイボーイ』連載の「世紀末航海録」を大幅に加筆改稿して単行本化。
藤原/新也  ふじわら しんや
1944年、福岡県生まれ。東京芸術大学油画科中退。インドを振りだしにアジア各地を旅して『印度放浪』『西蔵放浪』『全東洋街道』などを著す。第3回木村伊兵衛写真賞、第23回毎日芸術賞などを受賞
wikipedia.
私は、麻原の熊本県八代の実家を訪ね、マスコミを一切遠ざけていた麻原の兄との接触を試みる。麻原の粘着的な土着体質から、彼の世間に対する遠離と怨嗟の感情を決定付けたのは、巷間言われるような選挙での惨敗よりもむしろ、郷里で住民票受理を拒否され村八分に会ったことではないかと推測し、うらぶれた九州の辺境をさまよう。私は八代の駅を降り立ったとたんに楼閣のような王子製紙の工場に出くわす。それはさながら後年麻原がしばしば口にする持って生まれたカルマからの解脱の象徴に思える。麻原が敬愛し「オウム神仙の会」を立ち上げた際には、教祖になってほしいとまで言わせた長兄の経営する松本鍼灸院を客を装い訪ねたもののもぬけの殻であった。全盲の長兄は全盛期には1日に300人の患者を診たといわれるほどの手かざし治療の秘儀を持つ人物であり、私の目的はそれを受け継いだ麻原がイニシエーションを施した相手から受ける負のエネルギーをどう浄化しているのかと、目の疾患(身体障害)がオウムの本質にどのような影響を及ぼしたかを長兄に会うことで知ることであった。
長兄に会うことが叶わなかった私は、釣りをしようと不知火海へおもむくが、ここで偶然に新たな疑問を持つことになる。麻原の目の障害は、チッソの水俣病が原因ではないかということである。また、この国から受けたとも言うべき宿命的な身体障害が世間へ対する憎悪となり、事件へ結びついたのではないかという仮説を立てる。この考えにとりつかれた私は東京に戻り、多くの資料を読み漁り、水俣病に長くたずさわった弁護士後藤孝典の著書を目にし、編集者の仲立ちで後藤に会い、意見を聞く。後藤は、麻原の目の疾患が国家や天皇への憎悪に結びつくことはありえないと一蹴し、不快感を示す。また、後に後藤からはこれ以上、麻原と水俣病の関係について書くことは許さないとの抗議を受ける。
後に奇遇なことから、私は大阪に潜んでいた麻原の長兄に会う機会を持つ。私は、長兄のアパートに一泊し、ついに麻原が幼少期に不知火海で水銀に汚染されたと思われる魚介類を多く食べていたことや、水俣病患者として役所に申請したが、却下された事実を聞き出す。八代では水俣病の申請を出すと「アカ」との風評が広がり、それ以上は戦わなかったこと、また、早川紀代秀が教団に入ってきてから麻原の態度が急激に変わったことなどを聞き出す。最後に、自分の目の黒いうちは話すな、と釘を打たれる。
藤原は、この著書の中で誇大妄想はすべて現実の重さを直視し消化できない場合の自己保存のための現実逃避であると言い切る
構成
第1章 メビウスの海
第2章 黄泉の犬
第3章 ある聖衣の漂白
第4章 ヒマラヤのハリウッド
第5章 地獄基調音 
ギリシャ文字とは - コトバンク.jpg
レビュー 佐藤哲郎氏の「日本のやみろく」より抜粋 https://www.youtube.com/watch?v=ZCYrWuYpb6I&t=86s

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水俣病闘争史 - 2022年刊・・新潟水俣病の扱い① [新潟水俣病、資料]

9784309228624.jpg水俣病闘争史

著者 米本 浩二 /よねもと こうじ  
出版者 河出書房新社 
出版年 2022.8
ページ数 229p
ISBN 978-4-309-22862-4
新潟市立図書館収蔵 豊栄館  /493/ヨ
内容紹介 最もラディカルで大規模な公害闘争として知られる水俣病闘争は、どのように生まれ、全国的な闘争に展開していったのか。渡辺京二や石牟礼道子の知られざる運動へのコミットとともに、水俣病闘争の歴史をわかりやすく描く。
内容、感想
新潟水俣病を第2章で扱っている。【「ふかい、亀裂のような通路が、ぴちっと音をたてて、日本列島を縦に走ってひらけた。」(苦海浄土 わが水俣病)眠らされていた水俣が目覚める。】とあるが、目覚めさせた人は【新潟大の椿忠雄教授】があげられている。もう一人の立役者、新潟勤労者医療協会の木戸病院の斎藤恒医師が上がっていない。
椿教授は、東大で研究者時代に水虫(白癬)治療の有機水銀薬によるメチル水銀中毒の患者を診察したことがあるので、1965昭和40年1月18日に診察したときすぐに診断できた。それは、5月31日に新潟県に「阿賀野川下流沿岸に多く発生」と報告され、6月12日に新潟県と教授が公表した。その前に【母校の新潟大学の医師から有機水銀中毒症が発生していることを知らされていた。】と斎藤恒医師は記している。(『新潟水俣病』斎藤 恒 新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館、豊栄館、山ノ下館 ほか14館)
 
斎藤医師は、1964昭和39年6月16日の新潟地震による被災の健康診断で阿賀野川流域を診ていた。彼が勤めていた、勤労者医療協会・沼垂診療所の取り扱い患者数は約1万人に達してるから、阿賀野川流域の神経疾患の患者は、察知してたろう。
 
そして、6月12日に新潟県は公表する。上流にあった昭和電工・鹿瀬工場のアセトアルデヒド工程から流れ出た有機水銀の中毒とみられた。昭和電工と通産省は否定。12日の公表【直後、医学生・新日本医師協会新潟県支部・市水道労組・新潟県勤労者医療協会・新婦人・新潟医労協などによる学習会を開き、その場で新潟県民主団体水俣病対策会議(民水対)の準備会がつくられ】8月25日に正式に発足。民水対の中の勤労者医療協会・沼垂診療所を通じた働きかけで、患者団体「阿賀野川有機水銀中毒被災者の会」(後の新潟水俣病被災者の会)が1965昭和40年10月7日に結成された。
そして公表から2年後の1967昭和42年 6月12日、に昭和電工を相手に、損害賠償を求めて、被災者の会の患者提訴。新潟水俣病第1次訴訟の提訴である。本書・水俣病闘争史は「四大公害訴訟の先駆け」と評価しているが、、勤労者医療協会・沼垂診療所の斉藤恒医師を取り上げないと、熊本県水俣が遅れたのか、遅れた事情が見えてこない。
続く
 
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志田新作、津島屋集落、漁業権 1985年5月30日③④⑤ [新潟水俣病、資料]

志田新作、津島屋集落、漁業権 1985年5月30日③④⑤

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志田新作、はえなわ、ぞうご網 1985年5月30日①②図 [新潟水俣病、資料]

志田新作、はえなわ、ぞうご網 1985年5月30日①②③

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五十嵐キヨさん聞取り、医者のやる事らろか 1987年9月20日、PM ㉙㉚㉛ [新潟水俣病、資料]

五十嵐キヨさん聞取り、医者のやる事らろか 1987年9月20日、PM ㉙㉚㉛

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五十嵐キヨさん聞取り、課長の責任は部長の責任、部長の責任は知事の責任 1987年9月20日、PM ㉖㉗㉘ [新潟水俣病、資料]

五十嵐キヨさん聞取り、課長の責任は部長の責任、部長の責任は知事の責任 1987年9月20日、PM ㉖㉗㉘

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五十嵐キヨさん聞取り、釣りのお客さんに魚は大丈夫かと聞かれて 1987年9月20日、PM ㉓㉔㉕ [新潟水俣病、資料]

五十嵐キヨさん聞取り、釣りのお客さんに魚は大丈夫かと聞かれて 1987年9月20日、PM ㉓㉔㉕

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