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明治大帝の誕生 -帝都の国家神道化 [明治以後・国内]

489830.jpgタイトル1 明治大帝の誕生 
副タイトル1 帝都の国家神道化
著者1 島薗 進 /著  
出版年 2019.5
出版者 春秋社
読まずに覚え書
明治天皇は外傷なしで死んでいる。宮内庁が編纂した伝記『明治天皇記』によると、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。
 持病とされる糖尿病が悪化して尿毒症を併発したため、心臓麻痺を起こした。明治天皇が崩御したのは、1912(明治45)年7月30日午前0時43分。満59歳。体重約80kg。身長170㎝。BMIは27.7、肥満1
生物学の「分解」研究によれば、 《生き物はどのように土にかえるのか 著者 大園享司 発行・発売 ペレ出版 ISBN 978-4-86064-533-5》 
毎日の平均気温を合計したものを積算温度。 これが死体・遺体の分解速度によく合致してる。ヒトの遺体は、皮膚が膨れる・膨潤段階に積算温度400℃。ヒトを含め、動物は死ぬと 24時間以内に、からだを構成する細胞が分解し始めます。「自己消化」、あるいは「自己融解じこゆうかい」とよばれるプロセスです。自己消化によって、ガスが発生。遺体は皮膚でおおわれているため、ガスはすぐには体外に抜けません。このため腹部にガスがたまり、からだがふくらむ。
明治天皇は、7月30日から毎日の平均気温が30℃なら、400/30=14日後までは皮膚が膨れた膨潤死体・遺体であっただろう。7月31日から8月13日にかけて、明治天皇は櫬殿しんでんと仮に名付けられた宮城内に置かれてるが、明治天皇は皮膚が膨れた膨潤死体・遺体である。女官たちは1日3度、供御くごと呼ばれる食事を天皇の膨潤死体・遺体におそなえした。
分解段階には、積算温度1285℃かかる。皮膚が膨潤に酎え切れなくなり、裂け目が入り、ガスがそこから抜ける。また、裂け目からは、体内にたまっていた腐敗液が流れ出る分解段階に、明治天皇の遺体は8月14日から入ってる
8月14日から、毎日の平均気温が30℃だったとすると、積算温度1285℃には43日。8月13日から、天皇の遺体は皮膚に裂け目が入り、ガスがそこから抜け、体内にたまっていた腐敗液が裂け目から流れ出る分解段階で、柩がらガスが漏れ、柩の中は腐敗液が満ちていたろう。殯宮ひんきゅうとよばれた正殿の間に棺は安置されてる。分解が3分の2ほど進んだ、大喪の9月13日の朝、権殿かりどのと呼ばれることになった宮中桐の間に明治天皇の御み霊代たましろが奉安される。(1年後、宮中三殿の皇霊殿に祀られるまで天皇の聖霊が仮に宿る場とされた。)
長く仏教で葬られてきた天皇の葬儀としては、神式はまったく新しいもので、明治天皇が最初であった。
13日夜8時に葬送の鹵簿ろぼが宮城を出て二重橋を渡り、馬場先門から青山練兵場の葬場殿へと向かった。葬送の行列には1万人を超える儀仗兵、皇族、文武高官が加わり、沿道には2万4千人近くもの兵士が並んだ。
葬場殿は鳥居の向こうに建てられた木製の仮の神殿で、祭官長・鷹司煕通ひろみちの祭詞と玉串奉奠に始まる神道形式の葬儀が執り行われた。天皇の葬儀は長く仏教で葬られてきたので、神道形式の葬儀は明治天皇が最初であった。
初めての神道形式の葬儀が終わると、天皇の棺は霊柩列車に乗って京都へと運ばれた。桃山駅仮停車場に到着した天皇の柩は葱華輦そうかれんという乗り物に移され、慣例のとおり比叡山麓の八瀬村の八瀬童子52名に担がれ運ばれて、伏見桃山陵に埋葬された。。
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