大戦間期の日本陸軍--2000年刊行 [満州・大東亜]
大戦間期の日本陸軍
著者 黒沢文貴 /クロサワたかふみ
出版年 2000.2 出版 みすず書房
ページ数 443p大きさ 20cm ISBN 4-622-03654-1
新潟県立図書館収蔵本
著者 黒沢文貴 /クロサワたかふみ
出版年 2000.2 出版 みすず書房
ページ数 443p大きさ 20cm ISBN 4-622-03654-1
新潟県立図書館収蔵本
内容紹介
史上初の総力戦・第一次大戦(1914大正三年7月~1918大正七年11月)の衝撃は、開国の再来というべきものだった。第一次世界大戦と第二次世界大戦(1939昭和十四年9月1日~1945昭和二十年9月2日)との間の時期の日本陸軍の実相を、膨大な量の陸軍軍人の著書や論文、『偕行社記事』に寄せられた論説記事・提言・懸賞論文などを素材として読み解いて行き、大正デモクラシ-思潮の高揚、大波を受けた陸軍が示した意外に柔軟な姿勢でどのような方向へと向かおうとしたのか、欧州大戦によって生起した「総力戦」という概念とどのように向き合おうとしたのか、といったテーマについて深く掘り下げた政治外交史研究。
目次
序章
I 第一次世界大戦の衝撃と日本陸軍
序章
I 第一次世界大戦の衝撃と日本陸軍
第一章 日本陸軍の第一次大戦研究
第二章 日本陸軍の総力戦構想
第三章 日本陸軍の「大正デモクラシー」認識
第四章 日本陸軍の教育制度改革論
第五章 日本陸軍のアメリカ認識
第六章 日本陸軍の軍近代化論
第三章 日本陸軍の「大正デモクラシー」認識
第四章 日本陸軍の教育制度改革論
第五章 日本陸軍のアメリカ認識
第六章 日本陸軍の軍近代化論
II 「満州事変への道」と日本陸軍
第七章 田中外交と日本陸軍第
八章 満蒙侵略と国家改造
八章 満蒙侵略と国家改造
III 「太平洋戦争への道」と日本陸軍
第九章 両大戦間期の体制変動と日本陸軍
第十章 「1940年体制」と総力戦研究所
あとがき
第十章 「1940年体制」と総力戦研究所
あとがき
本書で問われているテーマは、(1)一般的に変革を好まない陸軍が、いかなる理由で〈革新〉を経て昭和ファシズム期の陸軍に変質したのか、(2)なぜ陸軍が1930年代の政治の主役となり、太平洋戦争を起こす力をもちえたのか、(3)大正デモクラシーから昭和ファシズムヘの転換を、どういう歴史的事象として理解するか、と集約できよう。
著者は、史上初の〈総力戦〉第一次大戦の衝撃は開国の再来ともいえる、と位置づける。そして、大正デモクラシー思潮の高まりに対し、軍が示した意外に柔軟かつ合理的な姿勢を明らかにする。さらに、自由経済・下からの国民統合・ワシントン体制などを柱とする「1925年体制」が、統制経済・上からの国民統合・軍部の合法的間接支配・大東亜共栄圏などを特徴とする「1940年体制」への移行過程の分析がなされる。
史料精査と思想史的考察により、日本政治外交史研究に寄与するところの大きい論集。
著者略歴
黒沢文貴 くろさわ・ふみたか
1953年東京に生れる。1984年上智大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(法学・慶應義塾大学)。宮内庁書陵部編修課主任研究官を経て、現在、東京女子大学現代文化学部教授。
共著『日本・ベルギー関係史』(白水社、1989)、共編『濱口雄幸 日記・随感録』(みすず書房、1991)、同『海軍の外交官 竹下勇日記』(芙蓉書房出版、1998)、同『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』(錦正社、1998)、論文「加藤高明、浜口雄幸と土佐」(『日本歴史』583号、1996年12月)、同「戦後日本の近代史認識」(『法学研究』73巻1号、2000年1月)ほか。
共著『日本・ベルギー関係史』(白水社、1989)、共編『濱口雄幸 日記・随感録』(みすず書房、1991)、同『海軍の外交官 竹下勇日記』(芙蓉書房出版、1998)、同『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』(錦正社、1998)、論文「加藤高明、浜口雄幸と土佐」(『日本歴史』583号、1996年12月)、同「戦後日本の近代史認識」(『法学研究』73巻1号、2000年1月)ほか。
忘れられた皇軍兵士たちーー2017刊 [満州・大東亜]
忘れられた皇軍兵士たち
著者 写真・文 樋口 健二 /(ひぐち けんじ)
出版者 こぶし書房
出版年 2017.6
ページ数 152p
大きさ 22cm
ISBN 978-4-87559-332-4
新潟市立図書館 収蔵 亀田館 NDC分類(9版) 369.39 /369/ヒ/
一般件名 傷痍軍人-写真集
内容紹介 かつて天皇の名の下に戦争に駆り出された多くの兵士たちが、負傷し、あるいは精神に障害を負って帰還した。国家によって人生を奪われ、療養所などで戦後を過ごしていた彼らを取材した著者が、その姿をモノクロ写真で伝える。 国立武蔵療養所(現在の国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター)、国立下総療養所(現在の国立病院機構下総精神医療センター)に入院していた精神障害を負った「未復員」皇軍兵士たちの姿が
「はじめに」より
日本がGNP世界第二位の華々しい経済成長をとげつつあった1970年代初頭、その繁栄の裏側で、多くの皇軍兵士たちは巷に放り出されたまま、誰からも顧みられることはなかった。
私が最初に彼らを取材したのは1970年から71年にかけての二年間だった。その頃、全国で約13万人の傷痍軍人がいた。……それが2005年には、5万1692人へと激減した。
「大東亜戦争」は明治以来続いた大日本帝国の歴史の総決算であり、敗戦による価値観の転倒は、かつての忠勇な「皇軍兵士」たちから経済的生活手段を奪ったばかりか、生きてきた意味や誇りすら奪い去ったのである。
樋口 健二
1937年長野県富士見町松目生まれ。報道写真家。
1937年長野県富士見町松目生まれ。報道写真家。
日本のいちばん長い日--2006 [満州・大東亜]
日本のいちばん長い日
シリーズ名1 文春文庫
シリーズ番号1 は8-15
著者名1 半藤 一利 /著
出版者 文藝春秋
出版年 2006.7
ページ数 371p
大きさ 16cm
版表示 決定版
一般件名 太平洋戦争(1941~1945)
NDC分類(9版) 210.75
ISBN 4-16-748315-7
昭和二十年八月六日、広島に原爆投下、そして、ソ連軍の満州侵略と、最早日本の命運は尽きた...。しかるに日本政府は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍に引きずられ、先に出されたポツダム宣言に対し判断を決められない。八月十五日をめぐる二十四時間を、綿密な取材と証言を基に再現する、史上最も長い一日を活写したノンフィクショ
目次
十四日正午‐午後一時―“わが屍を越えてゆけ”阿南陸相はいった
午後一時‐二時―“録音放送にきまった”下村総裁はいった
午後二時‐三時―“軍は自分が責任をもってまとめる”米内海相はいった
午後三時‐四時―“永田鉄山の二の舞いだぞ”田中軍司令官はいった
午後四時‐五時―“どうせ明日は死ぬ身だ”井田中佐はいった
午後五時‐六時―“近衛師団に不穏の計画があるが”近衛公爵はいった
午後六時‐七時―“時が時だから自重せねばいかん”蓮沼武官長はいった
午後七時‐八時―“軍の決定になんら裏はない”荒尾軍事課長はいった
午後八時‐九時―“小官は断固抗戦を継続する”小園司令はいった
午後九時‐十時―“師団命令を書いてくれ”芳賀連隊長はいった
午後十時‐十一時―“斬る覚悟でなければ成功しない”畑中少佐はいった
午後十一時‐十二時―“とにかく無事にすべては終った”東郷外相はいった
十五日零時‐午前一時―“それでも貴様たちは男か”佐々木大尉はいった
著者等紹介
半藤一利[ハンドウカズトシ]
昭和5(1930)年、東京に生れる。作家。28年、東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役、同社顧問などを歴任。平成5(1993)年「漱石先生ぞな、もし」で新田次郎文学賞、平成10年「ノモンハンの夏」で山本七平賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
著者等紹介
半藤一利[ハンドウカズトシ]
昭和5(1930)年、東京に生れる。作家。28年、東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役、同社顧問などを歴任。平成5(1993)年「漱石先生ぞな、もし」で新田次郎文学賞、平成10年「ノモンハンの夏」で山本七平賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
総力戦体制の正体 [満州・大東亜]
総力戦体制の正体
小林 啓治[コバヤシひろはる]【著】
柏書房(2016/06発売)
サイズ B6判/ページ数 357p/高さ 20cm
ISBN 978‐4760147106
NDC分類 210.7 /393/Ko12/
新潟県立図書館収蔵
内容説明
「安全保障」が社会全体をとらえ、統治手段になるまで。世界情勢が混迷を深め、軍事的なものの社会への埋め込みが進んだ1920~30年代の日本。戦時動員体制が確立するまでのプロセスを、下から支えた地域社会の行政文書により明らかにする。
目次
序章
第1章 兵事システムと村役場
第2章 統合と自治の併進
第3章 村のメディアから見た三〇年代
第4章 覆いかぶさる戦時体制、窒息する自治
第5章 「国民生活戦」から「一億国民総武装」へ
第6章 戦争末期の村と復員
終章
著者等紹介
小林啓治[コバヤシヒロハル]
1960年島根県生まれ。1983年京都府立大学文学部卒業。1989年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、京都府立大学文学部歴史学科教授。専門は日本近現代史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
餓死(うえじに)した英霊たちー2001 [満州・大東亜]
餓死(うえじに)した英霊たち
藤原 彰 /フジワラあきら 著
出版者 青木書店
出版年 2001.5
新潟市立図書館 収蔵
内容紹介
太平洋戦争(1941~1945)における日本軍の戦没者の過半数は餓死や栄養失調によるものだった。あまりに悲惨な最期を詳述し、無理で無茶苦茶な作戦を計画して実行したり、はじめから補給を無視して栄養失調が起こるのに任せた日本軍の責任と特質を明らかにする告発の書。
目次
はじめにーーー009
第1章 餓死の実態
1 ガダルカナル島の戦いーーー014
2 ポートモレスビー攻略戦ーーー040
3 ニューギニアの第十八軍ーーー058
4 インパール作戦ーーー080
5 孤島の置きざり部隊ーーー098
6 フィリピン戦での大量餓死ーーー117
7 中国戦線の栄養失調症ーーー130
8 戦没軍人の死因ーーー149
第2章 何が大量餓死をもたらしたのか
1 補給無視の作戦計画ーーー160
2 兵站軽視の作戦指導ーーー171
3 作戦参謀の独善横暴ーーー184
第3章 日本軍隊の特質
1 精神主義への過信ーーー200
2 兵士の人権ーーー210
3 兵站部門の軽視ーーー220
4 幹部教育の偏向ーーー231
5 降伏の禁止と玉砕の強制ーーー247
むすびーーー263
アジア太平洋戦争において死没した日本兵の大半は、いわゆる「名誉の戦死」ではなく、餓死や栄養失調に起因する病死であった―。戦死者よりも戦病死者のほうが多いこと、しかもそれが戦場全体にわたって発生していたことが日本軍の特質だと著者は指摘する。インパール作戦、ガダルカナル島の戦い、ポートモレスビー攻略戦、大陸打通作戦…、戦地に赴いた日本兵の多くは、無計画・無謀きわまりない作戦や兵站的な視点の根本的欠落によって食糧難にあえぎ、次々と斃れていった。緻密な考証に基づき、「英霊」たちのあまりにも悲惨な最期を明らかにするとともに、彼らを死へと追いやった責任を鋭く問う。
近代日本の阿片政策と朝鮮人ー権論文覚え書② [満州・大東亜]
権 寧俊(クォン ヨンジュン Kweon,Youngjun)著の「植民地朝鮮におけるアヘン政策」(アジア遊学260・新潟市立図書館収蔵)より 覚え書 続き
(2)大韓帝国期 1897明治39年~1910明治43年
1894年の日清戦争、翌年の下関条約で中国・清朝の李氏朝鮮・李朝に対する宗主権は放棄された。冊封体制から離脱させられた。李朝は独立国であることを明確にするために、国号を大韓帝国と改めた。 대한제국〈テハンジェグク〉
清国人の朝鮮への移住はアヘン戦争敗北後の一八八二年からはじまった。表 1をみると、一八八三年の清国人の人口はーー二人 (漢城〈現ソウル〉で四十九人、仁川で六十三人)であるが、日韓併合のー九ー〇年にはー万ー八ー八人と大規模な移住が行われた。
清国人移住者の主な出身地は山東省で、アヘン取引の商人が大半を占めていた。アヘン戦争後に清・中国で合法化されたケシ・罌粟栽培とアヘン生産。そのアヘンを清国人は自国でのアヘン吸煙の習慣を捨てずに朝鮮に来た。朝鮮はもともとアヘンの吸煙習慣がほとんどない地或であったが、清国商人が吸煙習慣を持ち込んだ。それで清国との国境地域に居住する人々のなかに相当のアへン吸煙者が増加するようになる。
表 2でー九一二年の胡鮮人と清国人のアヘン吸煙者の分布数を示した。清国人が一番多く居住していた漢城〈現ソウル〉と清国との国境地域であり出身地の山東省の対岸の平安南・北道に吸煙者が集中。
朝鮮と清国との『章程』ではアヘン流入禁止を強調していたが、実際には領事裁判権など朝鮮において清国人が保護される法があったことから、清国商人は朝鮮官憲の取締りを怖れなかった。とくに、ー九〇五年には「第二次日韓協約」によって朝鮮は外交権を日本に奪われ、ー九〇七年十一月には「第三次日韓協約」にって朝鮮の軍隊が解散され、警察権も軍隊も日本に奪われた。それゆえに、清国商人は、朝鮮人警察官が日本の警察と連携して取締りを実施しない限り、朝鮮人警察官の力をなんとも思わなかった。彼らは朝鮮全土でアヘン取引を行なったのである。
続ける
近代日本の阿片政策と朝鮮人ー権論文覚え書① [満州・大東亜]
権 寧俊(クォン ヨンジュン Kweon,Youngjun)著の「植民地朝鮮におけるアヘン政策」(アジア遊学260・新潟市立図書館収蔵本)より 覚え書
1840~42年のアヘン戦争後、清国ではアヘンの生産や輸入が合法化され、その影響が朝鮮にも及ぶことになった。朝鮮では、開港前には腹痛などの赤痢の治療薬として知られていたアヘンが、開港期には清国商人によって流入・拡散されて吸煙者が増加し、日本植民地期にはアヘン生産地または、アヘン供給地にまで転落してしまつた。本稿ではこれらの問題を実証的に考察する。
朝鮮伝統社会では「阿片」その原料「ケシ・罌粟」は単なる農家で栽培されている腹痛などに用いる薬剤の一部。
しかし、ー八七六年に朝鮮が日本との「日朝修好条規」締結により開港し、一八八二年に清国と「商民水陸貿易章程」 (以下『章程』)を締結すると、朝鮮においても清国の商人によってアヘンが流入するようになり、アヘンの吸煙問題が発生した。また、ー九一〇年に日本の植民地になってからはアヘン生産地または、アヘン供給地へ転換され、朝鮮におけるアへン問題は深刻化していった。
アヘン戦争後、戦争で敗退した清国は、イギリスの要求によりアヘン輸入を合法化しなければならなかった。その結果一八四二年以後、清国国内でのアヘン生産は急速に拡大し、「品質」も向上していった。また、アヘン戦争1840~42年の前には約二〇〇万人いたアヘン吸煙者が、戦争後の一八五〇年には三〇〇万人に増加し、一八八〇年には二〇〇〇万人までに増えた。これは 当時の清国人口の五パーセントに達しており、アヘン問題は清国社会の深刻な問題となつたのである。
これは清国だけの問題にとどまらず、隣国朝鮮にもその影擲を及ぼした。 朝鮮へのアヘン流入に対する憂慮は朝鮮が開港される時期からより深刻化していった。一八八二年・明治15年十月には朝鮮と清国とのあいだに『章程』が締結され、清国の商人たちの朝鮮における経済活動が許認された。それによりアヘンが清国商人によって朝鮮に持ち込まれることになった。
『章程』には両国商人によるアヘンの取引活動は固く禁ずると明記されていた。第二条 (領事裁判権の規定 )では、 朝鮮において清国人が罪を犯しても、それを朝鮮側が処罰することはできず、清国側が審議・判決することになっていた。清国商人たちはこれを利用して朝鮮半島の全土にわたってアヘン取引を進めた。
アヘン戦争後、アヘンの輸入および清国国内での生産消費(吸煙)が事実上合法化され、朝鮮においてのアヘン禁止策は滴国商人にとっては形式的なものにすぎなくなった。清国人は自国でのアヘン吸煙の習慣を捨てずに朝鮮に来た。清国人のアヘン吸煙する姿は朝鮮人の好奇心を誘発し、朝鮮人吸煙者を増加させる原因ともなった。
続ける
アヘンー第二次大戦中と敗戦後の繋がり [満州・大東亜]
マーシャルの研究 (Marshal - 1991 ) は【戦中に昭和通商がタングステンを中国の広東地方から取得する際に、阿片が交換物資として利用されており、そもそも東アジアにおいて阿片が貨幣代わりに使用されていた点を指摘ており、興味深い。戦後においても、阿片とタングステンがアメリカの東アジア政策において重要な役割を演じていたことを指摘している。】
熊野 直樹(くまの なおき)が2014年と2016年の「法政研究」で公表した研究で【戦時中「満州国」からナチス・ドイツが輸入した阿片 (ナチ阿片 )は、当時奉天と神戸の保税倉庫に保管されていたが、神戸の阿片は G H Qによって押収され、結果的に通商産業省に売り渡された。その購入代金は G H Q の最高司令官管理するナショナル・シティー・バンク・オブ・ニューヨークの「三ヵ国受託勘定 (ドル )」へ東京銀行を通じて支払われたことを G H Q / S C A P(連合国軍最高司令官総司令部)文書によって明らかにしている。
一方、奉天のナチ阿片はドイツ滞貨としてドイツ降伏・1945年5月の後、関東軍によつ購入された。関東軍によって購入された阿片や戦時中日本政府が中国から獲得した阿片は、戦後、 G H Qによって押収された。
中華民国が G H Qから略奪財産として返還させた阿片を日本政府に売却することで、事実上日本から賠償金一億円を取り立てていたことを明らかにしている。戦後も国際連合の規制対象であった阿片が日華賠償問題において中間賠償の補填して売買されており、阿片が戦争賠償において施設賠償の補填として利用されていたことを指摘している。戦中戦後において阿片は国際政治上、依然として重要な役割を演じていたのであった。】
熊野 直樹が2017年の「法政研究」(九州大学大学院法学研究院および比較社会文化研究院の法学・政治学関係教員と学生によって構成される九州大学法政学会が発行する学術雑誌)で公表した研究で【戦時中の日本の麻薬政策に関連して、コカインの原料であるコカの葉をナチス•ドイツと日本とが直接取引していた史実を明らかにした。・・・ナチス・ドイツは日本から直接コカの葉を輸入しており、日本側の生産地は硫黄島、沖縄、台湾であった。ドイツ降伏後、コカの葉は日本がドイツ滞貨として買い取ったが、そのコカの葉の戦後のゆくえについても明らかにしている。】
満洲国の阿片専売 [正] 2002年刊 [続] 2021年刊 [満州・大東亜]
山田 豪一/著 -- 汲古書院
県立図書館収蔵
山田豪一氏は満洲事変から満洲国終焉までの包括的な満洲国阿片専売史の執筆を予定した。研究計画の全体構想がしだいに膨大となって、ついに満洲国阿片専売の前半期のみを先行して『満州国の阿片専売』(2002年、汲古書院)で刊行する.
二〇〇四年一二月一四日付で『続・満洲国の阿片専売――日中戦争期中国占領地での阿片政策』の未定稿をまとめている。同氏は稿に手を加えて完成稿を仕上げる予定であったが、不幸なことに、二〇〇五年三月に交通事故に遭遇して健康を害し、二〇〇六年九月九日に逝去された。
山田豪一氏は1931年9月18日の満洲事変前の関東州の阿片専売、満洲事変後の満洲国阿片専売、及びその周辺事情について、財政・経済・法制・煙政・保健衛生・警察行政等の各方面から詳細なデータを収集してきたが、日中戦争勃発後については、質・量ともに入手できる情報量が限られて、難易度が飛躍的に高くなっている。こうした状況下で、同氏は山像「やまがた」氏、満洲国民生部禁煙総局の官吏として、阿片断禁政策の最前線で実務を担当した山像虎興氏とのインタビューを重ねた。
満洲国阿片専売には、財政収入をできるだけ多く確保する財政専売という側面とともに、阿片断禁政策という大義名分の下で、阿片・麻薬中毒者を救療する保健・衛生政策という側面が存在している。
山像氏は長崎医科大学を卒業して薬剤師の資格を得てる。1933年(昭和8年)に氏は満洲に派遣され、現地の阿片流通の実態調査に従事する。満洲国官吏として阿片・麻薬中毒者を救療する保健・衛生政策の立場を代表する人物で、龍江省で阿片中毒者のモデル救療施設を創設してのち、満洲国の中国人大官の積極的支持を得て、「阿片断禁十カ年計画」を含む「阿片断禁方策要綱」(一九三七年一〇月一二日)の制定を推進する原動力になっている。また、禁煙総局が発足してのち、同氏は「阿片麻薬断禁方策要綱」(一九四〇年一〇月三〇日)という重要法令の原案を起草している。さらに、禁煙総局において康生院の普及を主導したほか、一九四一年から興安西省に異動して、罌粟集団栽培の実務で中心的役割を果たしている。
山田豪一氏はインタビューを重ねる中で、満洲国阿片専売の内部構造に対する理解を深めて、続編を執筆する基本的着想を得た。
満州事変・1931当時、日の丸の旗をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。=陸軍葬儀委員長―-1953 [満州・大東亜]
陸軍葬儀委員長―支那事変から東京裁判まで
>池田純久 著 イケダ スミヒサ
--日本出版協同--1953
--日本出版協同--1953
〔支那〕事変当時(1931)、日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、アヘンの密売に従事しているものが多かった。かれらは治外法権を棚に日の丸の国旗を掲げて公然とアへンを売っているのである。だから中国人のうちには、日の丸の旗をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。時々日本の国旗凌辱事件がおこり外交問題に発展することがあったが、よく調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、アへンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった。
戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて、「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の淚を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって淚を流したであろうか。
とにかく日本人のアヘン密売者は中国人から蛇蝎ダカツの如く恐れられていた。
【蛇蝎だかつ へびとさそり。人が非常に忌み嫌うもののたとえ】
著者
池田 純久 イケダ スミヒサ 大正・昭和期の陸軍中将 極東軍事裁判弁護人。1894~1968