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E・トッド『西欧の敗北』、J・ボー『ロシアの戦争技法』荻野文隆ー機№383 [メディア]

E・トッド『西欧の敗北』、J・ボー『ロシアの戦争技法』荻野文隆ー機№383

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大衆宣伝の神話--マルクスからヒトラ-へのメディア史--1992年 [メディア]

 大衆宣伝の神話 
副タイトル1 マルクスからヒトラ-へのメディア史
著者1 佐藤卓己 /著  (さとう たくみ、1960年10月9日 - )
出版年 1992.12
出版者 弘文堂
一般件名 マス・メディア , 政治 , 宣伝 , ドイツ‐歴史
ページ数 352p
大きさ 20cm
ISBN 4-335-25051-7
NDC分類(10版) 361.46
新潟県立図書館 収蔵本
祝祭、漫画、シンボル、デモなど政治の視覚化は大衆の感情をどのように動員したか。漫画、シンボル、デモなど政治の視覚化は大衆の感情をどのように動員したか。ヒトラーが学んだプロパガンダを読み解く「メディア史」の出発点

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南京事件と新聞報道 記者たちは何を書き、何を書かなかったかー2023;10 [メディア]

南京事件と新聞報道 

 記者たちは何を書き、何を書かなかったかー2023;10

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目次

序章

「まぽろし」の正休

その記者は南京にいなかった

/公表されていた現場写真

/取材手法への疑問

/なぜこの本を書いたのか


第1章

上海戦線で

報道統制と「神話」

/中国軍を侮るな

/松井石根の記者会見

/火野葦平の手紙


第2章

南京へ

一番乗りをめざして

/郷土部隊と新聞記者

/日の丸と放火

/同情と虐殺

/誤報と万歳

/陥落前夜


第3章

さまざまな「百人斬り」

消えた7行

/創作か事実か

/「〇〇人斬り」の実像

/斬首と検閲

/記者が見た捕虜惨殺

/皇軍の倫理


第4章

残敵帰討

記者入城

/虐殺を書いた従軍画家

/朝日新聞南京通信局

/外国特派員との遭遇

/世界に発信された南京事件

/難民区と道徳


第5章

下関にて

江上の虐殺

/七〇〇〇名一人残らず

/野戦郵便長の証言

/西条八十と入城式

/悲惨なる入城


第6章

幕府山の捕虜

捕虜一万四七七七人

/福島民友「郷土部隊戦記」

/両角手記

/兵士たちの日記

/そこに記者はいたか

/記事は書かれていた


第7章

占領下の南京

難民区の新聞記者

/南京は微笑む

/杉山平助と石川達三

/「復興」の光景

/軍紀粛正


第8章

銃後という戦場

東洋平和のため

/小川愛次郎のこと

/批判者たちの視点

/軍国美談と子どもの手紙


第9章

戦後の令自

いわれなき優越感

/特集「太平洋戦争史」

/東京裁判

/ヒューマニズムの限界

/郷土部隊戦記の戦争観

/本多勝一「中国の旅」


終章

記者たちの戦争責任

戦時報道とは何だったのか

/報道統制と記者

/元従軍記者の戦後

/沈黙の意味

/過ちを繰り返さぬために


あとがき


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ジャニーさんに愛される息子に育てる法--2013 [メディア]


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ジャニーさんに愛される息子に育てる法
アイドルの掟 1
小菅宏/著
出版社名 竹書房
出版年月 2013年11月
ジャニー喜多川氏とジャニーズアイドルを最もよく知る著者による、究極のジャニーズ研究本。
目次
ジャニーズアイドルの掟は、あるのでしょうか?
ジャニー・H・喜多川の履歴書―謎が多い波乱万丈の半生記
序章 ジャニーズ大好き!の心理解剖
ジャニーさんに愛される息子に育てる法(顔(ジャニーズ・フェイス)
清潔感(クリーン)
笑顔(スマイル・フェイス)
性格(キャラクター)
親近感(フレンドリー)
運動能力(スポーツ・センス)
笑い(ユーモア・センス)
友情(フレンド・シップ)
家族愛(ファミリー・ラブ)
夢を抱く者(ドリーマー))
終章 多様化するジャニーズアイドルの行方―
  「本物のエンターテイナーは四十歳代から始まる」(ジャニー語録)
著者紹介
小菅 宏 (コスガ ヒロシ)  
作家。東京都出身。大学卒業後(株)集英社に入社。「週刊セブンティーン」創刊に参加し、ジャニー喜多川氏と知己を得る。「週刊プレイボーイ」・「月刊PLAYBOY」の副編集長を経て1990年独立。徹底した現場主義のドキュメント手法で、社会と人間の内実に迫る作家活動に入る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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タグ:観たいな
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マリアムとフィールズ賞……石井志保子、雑誌「科学」2023年10月号 [メディア]

雑誌 「科学」 2023年10月号
マリアムとフィールズ賞……石井志保子
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マリアム・ミルザハニ(ペルシア語 مریم میرزاخانی ‎、英: Maryam Mirzakhani)は、イランの代表選手として.国際数学オリンピック1994年香港大会と1995年カナダ大会に出場し、いずれも金賞を受賞。カナダ大会で満点をとっている。黒っぽいビジャブ姿の出場記念写真も残っている。テヘランの大学を卒業後、アメリカへ移りハーバード大学で数学の博士号を収得、その後目覚ましい業績をあげ31歳でスタンフォード大学の教授に就任。

 リーマン面のモデュライ空間であるタイヒミュラー空間についての驚くべき結果で.2014年にフィールズ賞を受賞した。数学はノーベル賞の対象にはなっていないため,国際数学連合(IMU)が授与するフィールズ賞が数学におけるノーベル賞にあたるとされている。しかし少し性格か異なる。フィールズ賞には40歳以下という年齢制限があることだ。これは数学の特性によるもので、数学における偉大な業績は40歳までに達成されることが多いからだ。しかしこの年齢制限は女性数学者にとっては極めて理不尽な面もある。数学者として絶好調を迎える30代前半から後半にかけては子どもを産み育てるという人生の重要な時期とまさに重なっているからだ。子どもを産み育てながら女性で初めてフィールズ賞を受賞したマリアムの力量がいかに大きいか想像できる。

 しかし運命は残酷だ。マリアムはがんに蝕まれフィールズ貧授貴式には出席できたものの受賞講演はキャンセルせざるを得ない病状だった。女性初のフィールズ賞受賞者しかもイスラム圏出身ということで世界中のメディアは注目したが、メディアというのは時として人を傷つける。当時の国際数学連合(IMU)総裁のイングリッド・ドプシー博士はマリウムの意を汲んでメディアから彼女を守ることに決め、徹底してメディアを彼女に近づけなかった。3年後の2017年にマリアムは40歳でこの世を去った。早すぎる死だった。

 マリフムはイラン国内でヒジャプを被っていたがアメリカに移ってからは被っていない、そしてイスラム教徒ではないチェコ出身の男性数学者と結婚し一女をもうけた。女性であること。イラン人であること。宗教のこと、マリアムには色々な思いがあったことだろう。しかし彼女はそれらについては頑なに沈黙し、豊穣な数学のみを語ってこ世を去った。

 ヒジ々プを被った数学オリンピックの女子選手たち、Tシャツ姿の女子選手たち、そして多くの男子選手たちを見なから、彼らや彼女たちの人生が、またその数学が果てしなく広がっていくことを心から願った。数学の真実の前には国境も性別も風習もなんの意味ももたない。

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満洲国における宣撫活動のメディア史ー王楽(オウラク)ー2023 [メディア]

満洲国における宣撫活動のメディア史 
満鉄・関東軍による農村部多民族支配のための文化的工作
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著者/編集 王楽(オウラク)
出版社:新聞通信調査会  https://www.chosakai.gr.jp/
334頁
発売日:2023年03月
ISBN 9784907087203 
内容説明
戦時期、農村部に居住する多民族の非識字層に向けて、視聴覚メディアによる宣撫宣伝活動が実施されていた。従来の活字メディアによる宣撫宣伝研究の枠組みを超えた実証的研究。
目次
第1章 宣撫とは何か
(欧米宣伝理論の導入;満洲における宣撫理論;宣撫におけるメディア)
第2章 制度化される宣撫
(満鉄における宣撫のあり方;関東軍の宣撫活動;現地化される宣撫活動の人員;モノとして整備される宣撫の技術)
第3章 宣撫宣伝活動の方法
(講演と映画上映;施療施薬と映画上映;人を引きつけるための工作方法)
第4章 各地域における宣撫宣伝活動の実践例
(商業主義と接合する宣撫―南満における漢族の娘々廟会;多民族多文化地域への拡散―北満における蒙古族のラマ教廟会)
著者等紹介
王楽[オウラク]
東北大学大学院情報科学研究科特任助教。1988年中国山東省生まれ。2011年来日。2015年、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本学術振興会特別研究員(DC2)、早稲田大学現代政治経済研究所特別研究所員、東京大学大学院情報学環特任研究員、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部非常勤講師、目白大学メディア学部客員研究員などを経て、2021年に東京大学大学院博士課程修了。博士(学際情報学)を取得。専門はメディア史、歴史社会学。本書の基になった博士論文「満洲国農村部における宣撫宣伝活動のメディア史」で第21回アジア太平洋研究賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
第21回アジア太平洋研究賞 受賞要旨より
 満洲国農村部で実施された宣伝活動において重要視されたのが「宣撫」と呼ばれる活動である。本論文は、宣撫活動における重層的なメディアの利用を手がかりに、一次資料に基づいて、満洲国農村部の統治政策の実態を実証的に解明するメディア史研究でもある。
 第1章では、宣撫活動の実施にともなう「宣撫」概念の形成について明らかにする。そのうえで、宣撫活動のターゲットの特徴とメディアの独自の特徴を明らかにする。
 第2章では、満洲国の宣撫活動のあり方の起源と展開を明らかにするため、宣撫活動の歴史的な発展とその人的・技術的な基盤について分析する。
 第3章では、宣撫活動の実施側がより効果的な方法を模索する経緯を明らかにする。
 第4章では、人口が分散した満洲国農村部で最も大衆を集められる宗教的な祭礼とそれと同時に行われる定期市を利用する方法を検討する。
 終章では、宣撫活動が現地社会の影響によって変容し、さらに現地社会の変容に拍車をかけたことを明らかにする。本論文は満洲国農村部の宣撫活動に関する実証的な歴史研究の空白を埋める試みであると同時に、メディア研究において「複数のメディア」を統合した分析視座を提供した点に意義がある。

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原発プロパガンダ 岩波新書 その④ [メディア]

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岩波新書 新赤版 1601
著者 本間 龍 / ホンマ リュウ
出版者 岩波書店
出版年 2016.4
ページ数 10,216p 
ISBN 978-4-00-431601-5
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館 S/539.0/ホン/

著者

1962年生まれ。博報堂で約18年間営業を担当。2006年退職後、在職中に発生した損金補填にまつわる詐欺容疑で逮捕・起訴。服役を通じて刑務所のシステムや司法行政に疑問をもち、出所後その体験を綴った『「懲役」を知っていますか?』(学習研究社)を上梓


目次

序章 「欺瞞」と「恫喝」
第1章 原発プロパガンダの黎明期(一九六八~七九)
第2章 原発プロパガンダの発展期(一九八〇~八九)
第3章 原発プロパガンダの完成期(一九九〇~九九)
第4章 プロパガンダ爛熟期から崩壊へ(二〇〇〇~一一)
第5章 復活する原発プロパガンダ(二〇一三~)


序章 「欺瞞」と「恫喝」 原発プロパガンダを流布したメディア


 多くの人々の意識に原発推進を訴えかけ、無意識のうちに同調させる。これこそまさに「プロパガンダ =宣伝行為」であり、原子力ムラは戦後四〇年以上、原発礼賛の宣伝広告活動を延々と展開してきた。

・原発は日本のエネルギーの三分の一を担っている
 •原発は絶対安全なシステム
 •原発はクリ—ンエネルギー
•原発は再生可能なエネルギー
これは、一つ一つの広告の中で必ず使用するように決められていた言葉・キャチフレーズなのだ。「原子力は電力の三分のーを担っている」   「原子カはクリーンエネルギー」などのコピーは、まさにメディアによって国民の目や耳に届けられた、「プロパガンダの成果」である。それらが絶え間ない新聞•雑誌広告やテレビ・ラジオ C Mによつて、全国隅々に流布されたということを、決して忘れてはならない。
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宣伝広告活動に費やした金額が最低でも約二兆四〇〇〇億円に上っていた

 幾多の事故や故障、隠蔽があったにもかかわらず、国民の意識を原発推進賛成に向けさせる、何か。その「何か」こそ、大量の「原発推進広告」と、原発政策に無批判となっていた「翼賛報道」であったのだ。


 メディアは長期間にわたり巨額の「広告費」をもらうことによって原子力ムラを批判できなくなり、逆にそのプロパガンダの一翼を担うようになってしまった。報道メディア (新聞やテレビ、雑誌等 )が完全に抱き込まれ、原発推進側 (原子力ムラ )の協同体となってしまっていた。
 スリーマイル島事故(1979年3月28日)もチェルノブイリ事故(1986年4月26日)も経験しており、日本のメデイアでも大きく取り上げられた。2002年の東電トラブル隠しの大騒ぎもあった。にもかかわらず、国民の意識は原発に肯定的だった。二〇〇九年の内閣府「原子力に関する特別世論調査」において、「原子力を推進」への賛成が五九.六 %、「現状維持」がー八.八 %という数字にはっきりと表れている。つまり、国民のハ割近くは原発推進に肯定的だったのである。


ところが二〇十一年三月の原発事故発生で、プロパガンダの中心だった東電がその機能を果たせなくなった。その結果、長年原子力ムラのご機嫌をうかがっていたメディアも息を吹き返し、ようやく様々な批判的検証がされるようになった。
 しかし、長年原発プロパガンダの片棒を担いだ事実について、ほとんどのメディアは検証をしようともしていない。大多数のメディアにとって、プロパガンダに従ったなどという体裁の悪い事実は存在せず、そもそも原発プロパガンダがあったことも認めたくはないのだ。



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原発プロパガンダ 岩波新書 その③ [メディア]

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岩波新書 新赤版 1601
著者 本間 龍 / ホンマ リュウ
出版者 岩波書店
出版年 2016.4
ページ数 10,216p 
ISBN 978-4-00-431601-5
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館 S/539.0/ホン/

著者

1962年生まれ。博報堂で約18年間営業を担当。2006年退職後、在職中に発生した損金補填にまつわる詐欺容疑で逮捕・起訴。服役を通じて刑務所のシステムや司法行政に疑問をもち、出所後その体験を綴った『「懲役」を知っていますか?』(学習研究社)を上梓


目次

序章 「欺瞞」と「恫喝」
第1章 原発プロパガンダの黎明期(一九六八~七九)
第2章 原発プロパガンダの発展期(一九八〇~八九)
第3章 原発プロパガンダの完成期(一九九〇~九九)
第4章 プロパガンダ爛熟期から崩壊へ(二〇〇〇~一一)
第5章 復活する原発プロパガンダ(二〇一三~)


序章 「欺瞞」と「恫喝」 日本における結実


 プロパガンダ=広告宣伝は、時代の要請により、世界各地で手を替え品を替え、最先端で強力なテクニックを駆使して展開されてきた。プロパガンダ=広告宣伝の技術を磨いてきたのが、世界各国の広告会社、 P R会社、日本においては電通と博報堂の二大広告代理店である。そしてその結実の一つが、日本における原発推進広告、つまり「原発プロパカンダ」でったのだ。

 これは、ー九五〇年代に原発推進を国策と定めた時点で当然の帰結であった。国策と決めたからには、万難を排して原発を推進しなければならない。しかし戦後の日本は民主主義国家であり、いくら国策といえども成田空港闘争のように反対派を強行排除してばかりでは、全国で原発建設を円滑に進めることはできない。そこで、かりそめでも良いから、国民の多数における合意の形成 (チョムスキーはそれを「合意の捏造=マニュファクチャリング・コンセント Manufacturing Consent 工場制手工業合意 」と名付けた )が必要とされた。つまり、多数の国民が原発を容認している、という世論の形成を目指したのである。


この目的には二つの大きな問題があった。それは原発というシステムがきわめて不完全であり、この四〇年間で度々事故が発生したことと、日本は世界有数の地震大国で、原発を設置するには全く不向きな地域であったことだ。この原発推進には致命的な欠陥を、徹底的に隠さなければならなかった。そこで、単純な「原発は安全ですよ」という生やさしい「宣伝広告」レベルではなく、何が起きても絶対安全、事故など起きるはずがないという、神懸かりともいうべき「安全神話」を流布する、徹底的な「プロパガンダ」の必要性が生じたのである。 

 それを可能たらしめるためには、全国を覆う巨大メディアと地方に根ざしたローカルメデイアの両方をフル活用して国策を宣伝し、国民に「原発は安全で必要不可欠なシステムである」という意識を浸透させる必要があった。だから国と電力会社は、原発建設が始まったー九六〇年代後半から 3.11まで、その基本スタンスに忠実に、巨費を投じてプロパガンダを推進してきたのである。

 そのため、原子力ムラはその圧倒的な資金をあらゆるメディアにばら撒いて「原発プロパガンダ」を展開した。そのために投入された金額は、電力九社の普及開発関係費 (広告費)だけでも、約四〇年問で二兆四〇〇〇億円 (朝日新聞社調べ )と全国の電力ー〇社による会費で運営され、任意団体のため活動内容と予算が公表されていない電気事業連合会 (電事連)は、電力会社の別働隊として、電力供給管内に活動が縛られる電力会社に成り代わり、地域や県に関係なく広告を出稿した。 

 さらに経産省・資源エネルギー庁、環境省などの政府広報予算、二〇〇〇年頃から広告出稿を開始した N U M〇 (原子力発電環境整備機構 )をも加えれば、投下された金額は、前述の二兆四〇〇〇億円よりもさらに数倍に膨れあがっていたと考えられる。

続く

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原発プロパガンダ 岩波新書 その⓶ [メディア]

51hks.jpg原発プロパガンダ

岩波新書 新赤版 1601
著者 本間 龍 / ホンマ リュウ
出版者 岩波書店
出版年 2016.4
ページ数 10,216p 
ISBN 978-4-00-431601-5
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館 S/539.0/ホン/

目次

序章 「欺瞞」と「恫喝」
第1章 原発プロパガンダの黎明期(一九六八~七九)
第2章 原発プロパガンダの発展期(一九八〇~八九)
第3章 原発プロパガンダの完成期(一九九〇~九九)
第4章 プロパガンダ爛熟期から崩壊へ(二〇〇〇~一一)
第5章 復活する原発プロパガンダ(二〇一三~)
著者
1962年生まれ。博報堂で約18年間営業を担当。2006年退職後、在職中に発生した損金補填にまつわる詐欺容疑で逮捕・起訴。服役を通じて刑務所のシステムや司法行政に疑問をもち、出所後その体験を綴った『「懲役」を知っていますか?』(学習研究社)を上梓


序章 「プロパガンダ」とは何か  より
プロパガンダという言葉の語源は、ラテン語のpropagare(繁殖させる、種をまく )であり、一六ニ二年に設置されたカトリック教会の布教聖省 ( Sacra Congregatio de Propaganda Fide )、現在の福音宣教省の名称として歴史に登場している。つまりはキリスト教世界で最も重要な、宣教活動を指す言葉でもあったのだ。

  その後、プロパガンダは国家問の戦争において必要不可欠のものとなっていった。それは印刷技術の進歩により紙媒体を中心に発展したが、その手法は、ラジオや映画という新しいメディアが登場した第一次大戦時に長足の進歩を遂げた。太平洋戦争で日本の対外宣伝放送を担当した池田徳眞氏は、その著書『プロパガンダ戦史』 (中公新書、一九八一年 )の中で、第一次大戦中最も熱心にプロパガンダを研究し、効果的に戦場で展開したのはイギリスであったと指摘している (イギリスはすでにその頃、「ウェリントン・ハウス」   「クル—・ハウス」という宣伝機関を持っていた  )。また、大戦に参加した主要国のプロパガンダを紹介した書としてハンス・ティンメ『武器に依らざる世界大戦』を詳細に分析、外務省や参謀本部に報告したとしている。
アメリカもー九一六年に「アメリカ合衆国広報委員会」を設けており、すでに二〇世紀初頭において、先進国はプロパガンダの重要性を十分に理解、研究していたのだ。


ヒトラーの「反省」

第一次大戦当時のドイツはプロパガンダについて、全くといっていいほど無頓着であり、連合国が仕掛けた謀略宣伝に対しほとんど無力だった。実際に戦争に参加し負傷したアドルフ・ヒトラー (後のドイツ第三帝国総統 )はこの事実を肌身で感じ、後に著作『わが闘争』の中で、「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収め一つるかということを、人々は戦争の間にはじめて埋解した。 (中略 )われわれのこの点でぬかっていたものを相手は未曾有の巧妙さと真に天才的な計算で出迎えたからである。この敵の戦時宣伝から、わたしもまた限りなく多くのものを学んだ」 (『わが闘争 I』、角川文庫、   二三二頁 )と述べている。そして彼は後年、宣伝省を作ることで、その反省を十分に活かしたのだった。

 このように、プロパガンダ戦略は第一次大戦時にすでに連合国によって実施されており、ナチスはその敗戦の反省を活かすために宣伝省を設けたに過ぎない。
第二次大戦後に、米ソによる冷戦構造の中、互いの社会体制の優位を喧伝する熾烈なプロパガンダ合戦が行われたことは歴史的事実である。さらにその後の冷戦終結後、アメリカによる対中東戦略、とりわけ全世界に対しイラク戦争を正当化するために強力なプロパガンダ戦略が展開されたことは、ノーム・チョムスキーや E・W・サイードの著作によって明らかにされている。


日本における結実 続く

 

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原発プロパガンダ 岩波新書 [メディア]

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岩波新書 新赤版 1601
著者 本間 龍 / ホンマ リュウ
出版者 岩波書店
出版年 2016.4
ページ数 10,216p 
ISBN 978-4-00-431601-5
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館 S/539.0/ホン/

内容紹介
世界有数の地震大国日本になぜ54基もの原発が建設され、多くの国民が原子力推進を肯定してきたのか。電力料金を原資とする巨大なマネーと日本独自の広告代理店システムが実現した「安全神話」と「豊かな生活」の刷り込み。40年余にわたる国民的洗脳の実態を追う、もう一つの日本メディア史。
著者
1962年生まれ。博報堂で約18年間営業を担当。2006年退職後、在職中に発生した損金補填にまつわる詐欺容疑で逮捕・起訴。服役を通じて刑務所のシステムや司法行政に疑問をもち、出所後その体験を綴った『「懲役」を知っていますか?』(学習研究社)を上梓


はじめに    より
 独裁国や軍事国家なら、国家や権力者の意思を伝えるために国民をテレビやラジオの前に強制的に座らせ、為政者の発言や演説を聞かせることができるが、平時における自由主義社会では、もちろんそうはいかない。そのため、権力側の主張を無理なく効果的に国民に伝える、別の手段が必要となった。その役割を担ったのが、戦後、日本人の生活の隅々にまで浸透した「広告」であった。そしてそれらを実際に作り、最も効果的な展開計画を立案し実行したのが、電通を頂点とする大手広告代理店であった。

 広告展開のために電力九社 (原発がない沖縄電力を除く )がー九七〇年代から 3.11までの約四〇年間に使った普及開発関係費 (広告費 )は、実に二兆四〇〇〇億円に上っていた (朝日新聞社調ベ )。これは、国内で年問五〇〇億円以上の広告費を使うトヨタやソニーのような巨大グローバル企業でさえ、使用するのに五〇年近くかかる金額であった。
 全国の電力ー〇社による会費で運営され、任意団体のため活動内容と予算が公表されていない電気事業連合会 (電事連)は、電力会社の別働隊として、電力供給管内に活動が縛られる電力会社に成り代わり、地域や県に関係なく広告を出稿

 経産省・資源エネルギー庁、環境省などの政府広報予算、二〇〇〇年頃から広告出稿を開始した N U M〇 (原子力発電環境整備機構 )をも加えれば、投下された金額は、前述の二兆四〇〇〇億円よりもさらに数倍に膨れあがっていたと考えられる。原子力ムラはこれらの膨大な資金を広告代理店に渡し、性差や年齢別など、あらゆるターゲッ卜向けに原発の有用性を刷り込む広告や C Mを大量に作らせ、ばらまいた。

 その巨額の広告費を受け取るメディアへの、賄賂とも言える性格を持っていた。あまりに巨額ゆえに、一度でもそれを受け取ってしまうと、経営計画に組み込まれ、断れなくなってしまう。そうしたメディアの弱点を熟知し、原子力ムラの代理人としてメディア各社との交渉窓口となったのが、電通と博報堂に代表される大手広告代理店であった。

日本の広告業界の特殊性

 日本の広告業界は、寡占化を促す非常にいびつな構造を持っている。

 欧米では寡占を防ぐために、一業種一社制、つまり、一つの広告会社は同時に二つ以上の同業種他社の広告を扱えないという制度を取っている。たとえば、自動車業界でトヨタと契約したなら日産やホンダの仕事はできない、といった縛りがあるのだ。また、広告制作部門とメディア購入部門の分離が大原則であるのに対し、日本にはそうした決まりがない。このため、どの業種でも上位二社が全てのスポンサーを得意先として抱えることができるうえ、 C M制作から媒体購入 (メディア・バイイング )までの一貫体制を敷ける二社が圧倒的に優位な仕組みとなっている。

 さらに特殊なのは、欧米の広告会社の基本スタンスが「スポンサーのためにメディアの枠を買う」なのに対し、日本ではメディアは、電博に「広告を売ってもらう」という弱い立場にあるため、昔も今もこの二社には絶対に反抗できないのだ。 

 反原発報道を望まない東電や関電、電事連などの「意向」は両社によってメディア各社に伝えられ、隠然たる威力を発揮していった。東電や関電は表向きカネ払いの良いパトロン風の「超優良スポンサー」として振る舞うが、反原発報道などをしていったんご機嫌を損なうと、提供が決まっていた広告費を一方的に引き上げる (削減する )など強権を発動する「裏の顔」をもっていた。そうした「広告費を形にした」恫喝を行うのが、広告代理店の仕事であった。 

 そして、原発広告を掲載しなかったメディアも、批判的報道は意図的に避けていた。電事連がメディアの報道記事を常に監視しており、彼らの意図に反する記事を掲載すると専門家を動員して執拗に反駁し、記事の修正・訂正を求められたので、時間の経過と共にメディア側の自粛を招いたのだった。

 こうして 3・ 11直前まで、巨大な広告費による呪縛と原子力ムラによる情報監視によって、原発推進勢力は完全にメディアを制圧していた。つまり、日本の広告業界の特殊性が、原発プロパガンダの成功の大きな要因だったのだ。

続く


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