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やりなおす戦後史ー2015年 その⓶『空飛ぶ要塞』爆撃機B-17の集中配備とマッカーサー大将 [明治以後・国内]

やりなおす戦後史  著者 蔭山克秀 /かげやま・かつひで 
出版年 2015.7  出版者 ダイヤモンド社  ページ数 311p 大きさ 19cm
ISBN 978-4-478-06565-5
新潟市立図書館収蔵  NDC分類(9版) 210.76

著者紹介 蔭山克秀 年齢不明 愛媛県出身。代々木ゼミナ-ルで圧倒的な人気な民科№.1講師。
抜粋して掲載したWeb https://diamond.jp/articles/-/75746  より
マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官でフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。
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《内はニジヤ挿入 
《第二次世界大戦が欧州で1939年に始まってからも、主に予算不足が原因でフィリピンの現戦力では、大日本帝国と戦争を行うのは困難であると米国政府・ワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、1941年7月にルーズベルト米大統領の要請を受け、現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官に中将に昇進し就任、開戦後の12月18日に大将に昇進した。
 1941年、米国ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言した。フィリピン軍歩兵の装備の充実が図れた。またアメリカ陸軍航空隊がフライングフォートレス(Flying Fortress)『空飛ぶ要塞』と誇っていた大型爆撃機B-17の集中配備を計画した。計画では74機のB-17を配備。B-17にはフィリピンと日本を往復する航続距離は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、ソビエト連邦のウラジオストクまで飛んで給油し、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいとにジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は考えていた。マッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(B-17を配備され)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べている。1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸の埠頭に山積みされていた。増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れれば、戦力が充実し、大日本帝国軍より防衛できる。
マッカーサーは優勢な航空兵力と15万の米比陸軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持った。それでマッカーサーは上陸してくる海岸の水際撃滅を執り、積極的な防衛戦を行う新戦略に変えた。1941年10月にレインボー計画が改定(RAINBOW 5)されたとき、マッカーサーは見直しを要求し、フィリピン全土の要所に兵力を配置する積極的な防衛策に転換させた。
それで10月以降に、兵食などの物資を海岸により近い平地に輸送・集結した。
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1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワイ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。9日11時からB-17はクラークフィールド空軍基地で、台湾空襲の爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機90機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊が奇襲した。零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合計106機が襲撃。アメリカ極東空軍は、12月10日頃までに10機前後になり、壊滅した。
続く

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