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やりなおす戦後史ー2015年 その④ 魚雷艇の艦隊 [明治以後・国内]

やりなおす戦後史  著者 蔭山克秀 /かげやま・かつひで 
出版年 2015.7  出版者 ダイヤモンド社  ページ数 311p 大きさ 19cm
ISBN 978-4-478-06565-5
新潟市立図書館収蔵  NDC分類(9版) 210.76

著者紹介 蔭山克秀 年齢不明 愛媛県出身。代々木ゼミナ-ルで圧倒的な人気な民科№.1講師。
抜粋して掲載したWeb https://diamond.jp/articles/-/75746  より
マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官でフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。
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《内はニジヤ挿入 
《マッカーサーは命令違反を犯し軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退き、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした。
 マッカーサー大将が脱出を迷っている間にも戦局は悪化する一方で、飢餓と疫病に加えアメリカ・フィリピン軍の兵士を苦しめたのは、日本軍の絶え間ない砲撃による睡眠不足であった。もはやバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかった。
 マッカーサー大将の司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。マッカーサー司令部は継続して「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将はフィリピンにおける日本軍の総司令官本間雅晴中将はハラキリしたとの報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は山下奉文である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった。
コレヒドール要塞にはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、金や銀を運び出していた。その潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサー大将は生まれついての閉所恐怖症であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャル陸軍参謀総長に申し出し許可された。マッカーサーは、魚雷艇でミンダナオ島に脱出する事とした。3月11日にマッカーサーとジーン・マッカーサー夫人、アーサー・マッカーサー IV (彼らの 4 歳の息子)と使用人アー・チューが搭乗するPT-41(英語版)とマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ばれ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった。
4隻の魚雷艇隊は800kmの危険な航海を無事に成し遂げミンダナオ島に着き、ここからボーイングB-17でオーストラリアまで10時間かけて飛行し、次いでは列車で移動し、3月20日に南オーストラリア州のアデレード駅に到着。、マッカーサーは有名な宣言「I shall return  必ずや私は戻るだろう」を出した。
続く

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