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神論: 現代一神教神学序説 [思考の型]

神論: 現代一神教神学序説   中田 考 著

 一神教の入門書。

私たちにとって神とは? 神にとって人間とは?

読者は、新たに現前した「啓示唯一神教神学」を通して、従来の世界認識そのものを新たに超え出ていくことになる。イスラームを超えたイスラームの真義を開示する、

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今秋解散総選挙があるなら、ほぼ無風選挙で、敵失もなく、マグレも起きず、少数政党は皆殺しに近い状態になる。  烏賀陽 弘道 [思考の型]



烏賀陽 弘道  @hirougaya


選挙に勝つには、まず徹底的な


1)選挙区の人口動態の研究

2)前回選挙の研究

3)敵候補の徹底的な調査


をしなければなりません。


マーケティングの市場調査に近いでしょう。

夜間人口と昼間人口の違いはもちろん、性別、年齢別、職業の有無、職種、できれば収入層などの多次元マトリックスデータが必要です。


 もうひとつ重要な「武器弾薬」は「情報」です。「カネ」「組織」のない政党は特に情報が兵器になります。

現在ならインターネット、特にYouTubeを主軸にしたSNSです。


 ポスターはりはボランティアのための参加イベント、街頭演説はリアルイベントくらいに考えたほうがいい。

現在の主戦場はネット、中でもSNSにあります。

 2023年7月24日

·

 インターネット、特にSNSは「貧者の武器」です。カネや組織で武装した正規軍を相手に戦争するゲリラ部隊は、これしか有効な兵器はない。


 ところがこの貧者の武器を正しく使えない少数政党が多すぎる。自分たちがゲリラにすぎないという自覚がないのです。貧弱な武装のまま正規軍と正面で戦闘する。ボロ負けに決まってます。


 少数政党の候補者のYouTubeの利用の最悪例は「街頭演説の録画集」になっている例。街頭演説など、有権者は見飽きています。何をいうかもわかる。やっても固定ファンが喜ぶだけで、票は増えません。

また「党首が応援に」動画も載せないでください。党内の身内には意味があるのでしょうが、そんなものみんなやるから有権者はうんざりします。


カネや組織のない少数政党が武器としてYouTubeなり SNSを使う場合に重要なこと

①他にない個性的で独自のコンテンツ

かつ

②それで候補者の人となりを知ることができる

かつ

③票になる内容

の条件を満たすことです。


 とある友人が選挙に出た時、この条件を満たすコンテンツを具体的に3つ作り、仮タイトルまで考えて、パワーポイント20枚で提案したのですが、まったく実現しません。見れば、相変わらずYouTubeは街頭演説録画集です。ひどく虚しくなります。


 また、数年前のわいせつ語・汚語(マンコ、クンニ、オナニー、ゲロなど)をべらべらしゃべっている動画をそのままYouTubeに残している女性候補者がいて、仰天したことがあります。すぐに削除したほうが良いでしょう。間違いなく女性票は減ります。また、明らかに酔ってロレツの回らぬ状態で、男性との猥談をYouTubeに上げている女性候補者もいます。これもびっくり仰天しました。削除しないとまずい。人前に酩酊して出て話すなどは、政治家として失格だと自分で言うようなものです。



選挙区

対立候補

これまでの選挙

のデータの徹底研究をしないで選挙に勝てるなんて考えてはなりません。勝てたとするなら、それはマグレか相手陣営の敵失です。


今秋解散総選挙があるなら、ほぼ無風選挙ですので、敵失もなく、マグレも起きません。つまり少数政党は皆殺しに近い状態になります。

午後7:48 · 2023年7月24日

·

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3>対立候補者、その党首やリーダーの本は徹底的に読み込まねばなりません。維新の候補に挑戦するなら、橋下徹や松井一郎、吉村洋文の本はすべて目を通し、新聞記事で過去の発言を洗い出す。その思考法を探る。そして弱点を探します。候補者が忙しすぎるなら、選対がやって要約を渡せばよいでしょう。


選挙とは戦争である、とはこういうことを指します。

カネ、組織より強力な兵器は「情報」です。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と孫子の「兵法」にあるとおりです。


 カネと人員のある政党の候補なら、強力な対抗馬の陣営に運動員を装ったスパイぐらいは当然送り込んでいる、と言うのが私の過去の取材経験です。少なくとも、そう言う前提で選挙ボランティアや運動員は見ておいたほうが良い。送り込んでいないとすると「ほっといても勝手に落選する」と思っている候補者陣営です。


 プラス言うまでもないことですが、各陣営に必ず一人は地元警察公安部の警官がボランティアや運動員を装って入っています。男女年齢問いません。それぐらいは当たり前です。それが公安警察の仕事ですから。


· 2023年7月25日

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広報・広告・プロパガンダ-2003 [思考の型]

51R6SXQW02L.jpg広報・広告・プロパガンダ

叢書現代のメディアとジャーナリズム 番号 6

責任編集 津金沢 聡広 つがねさわ としひろ/  

責任編集 佐藤 卓己 さとう たくみ/  

出版者 ミネルヴァ書房

出版年 2003.10

ページ数 293,11p 大きさ 22cm

ISBN 4-623-03936-6

新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館2階 /361.4/コウ/


内容紹介 「宣伝」とは何か。研究史の流れのなかで全体を位置づけ、宣伝編・世論編・広報編・広告編および展望編の5部構成により、広報・広告・プロパガンダの研究の歴史と現状の課題を明らかにする。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

津金沢/聡広

1932年生まれ。1959年京都大学大学院教育学研究科中退、博士(社会学)。現在、桃山学院大学社会学部(特任)教授、関西学院大学名誉教授


佐藤/卓己

1960年生まれ。1989年京都大学大学院博士課程単位取得退学、博士(文学)。現在、国際日本文化研究センター助教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


内容一覧

タイトル 著者名 ページ

「プロパガンダの世紀」と広報学の射程 佐藤 卓己/著 2-30

現代政治キャンペーンの理論と技法 平林 紀子/著 31-55

「世論」(せろん・よろん)概念の生成 宮武 実知子/著 56-74

戦略的世論調査の技法 稲葉 哲郎/著 75-97

現代日本の企業広報 猪狩 誠也/著 98-119

行政広報の変容と展望 上野 征洋/著 120-146

環境コミュニケーション 清水 正道/著 147-175

アメリカ広告文化史 常松 洋/著 176-199

広告メディアとしての戦時期婦人雑誌 石田 あゆう/著 200-222

ブランド広告の理論 青木 貞茂/著 223-245

ネット広告の機能 柴内 康文/著 246-269

広告のカルチュラル・スタディーズ 難波 功士/著 270-290

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無痛文明論ー2003 ① [思考の型]

4194SG7RFRL.jpg無痛文明論
著者名1 森岡 正博 /著  
出版者 トランスビュー
出版年 2003.10
ページ数 1,451p
大きさ 22cm
ISBN 4-901510-18-5
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館 /114/モ/


はじめに
 現代社会は、いま、「無痛文明」という病理に飲み込まれようとしているのではないだろうか。快にまみれた不安のなかで、よろこびを見失った反復のなかで、どこまで行っても出口のない迷路のなかで、それでもなお人生を侮いなく生き切りたいと心のどこかで思っている人々に、私はこの本を届けたい。                    ‐ 第一章から第六章までは、1998年から2000年まで雑誌に連載されたものを、原型をとどめいくらい書き直したものである。この連載は、思相に関心をもつ人々のあいだで大きな反響を呼んだ。その後、結論部分にあたる第七章と第八章を、本書のために書き下ろした。第八章において、「無痛文明」の秘密が、最終的に解き明かされる。 
 現代社会のなかで、真綿に包まれるような漠然とした不安を覚えるとき、われわれは直観的に「無痛文明」の存在を感じ取っているのかもしれない。この本は、読者が一度は感じたことのあるであろうそのような感覚に、言葉を与えようとする試みなのである。
目次
第一章 無痛文明とは何か―――3
 無痛文明―――3
/人間の「自己家畜化」―――5
/身体の欲望―――10
/「生命のよろこび」とは何か―――16
/「無痛文明」への進化―――24
/無痛文明の中の人間―――33
/無痛文明論の語り方―――39
第二章 無痛文明における愛の条件
 「生命の品質管理学」の登場―――46
/選択的中絶と条件付の愛―――50
/「条件付ではない愛」とは何か―――58
/無痛文明における愛―――77
/セックスと自傷行為―――85
/無痛文明の二つの戦略―――90
第三章 無痛奔流
 大きな渦の中で―――97
/刃物は誰に向かって突き出されているか―――101
/無痛文明からの様々な攻撃のかたち―――113
/「身体の欲望」と「生命の力」の戦い―――120
/自縄自縛の三つの次元―――122
/敵はどこにいるのか―――128
第四章 暗闇の中での自己解体
 私を起点として―――136
/社会レベルにおける自縄自縛の解体―――143
/共犯関係的支配を解きほぐす―――148
/アイデンティティと中心軸―――162
/私自身の場合―――173
/「出会い」の意味論―――187
/果てしなきプロセスとしての愛―――193
/絶対孤独ということ―――198
第五章 身体の欲望から生命の欲望へ
 「身体の欲望」と「生命の欲望」―――210
/苦しみをくぐり抜けること―――212
/エロス的な交わりのために―――214
/領土拡大に抗して―――217
/捕食の連鎖―――224
/出世前診断を例に考える―――233
/身体・生命・知の三元論―――236
/無痛文明を解体し尽くすために―――240
第六章 自然化するテクノロジーの罠
 二重管理構構造―――248
/ランドスケープ・イマージョン―――255
/「聖なる場所」への侵入―――260
/自然の背後をあばき出す―――268
/無痛文明における「自然」の意味―――272
/崩壊への戦略―――278
第7章 「私の死」と無痛文明
 死の思索―――290
/死の恐怖―――294
/「私の死」が恐ろしいのはなぜか―――301
/出来事としての「私の死」―――312
/観念としての「私の死」―――318
/中心軸通路―――335
第8章 自己治癒する無痛文明
 資本主義と無痛奔流―――341
/欲望を再考する―――355
/開花の学―――360
/捕食の思想と宇宙回帰の知―――368
/中心軸回路網―――388
/無痛化装置―――394
/無痛化装置の解体―――402
/自己治癒するシステム―――410
/自己治癒するシステムとの戦いとその運命―――430
/ペネトレイター―――443
あとがき―――450
続ける


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詭弁ハンター 4回目、「記憶にありません」を封じる追及法とは [思考の型]

https://wezz-y.com/archives/87753 より覚え書
●山崎雅弘の「詭弁ハンター」(第4回)
総務省幹部らの不正疑惑、逃げ台詞の「記憶にありません」を封じる追及法とは 

「記憶にありません」の詭弁としての構造を読み解きます。
「記憶にありません」という言葉は、本当のこと(事実関係)を示す証拠が出てきた瞬間に一発で崩れ落ちる、砂上の楼閣のような詭弁です。
こうした証拠が出なければ、「記憶にありません」が詭弁であることを立証できないのでしょうか?

総務省の幹部官僚が、許認可対象の放送事業者から小料理屋で接待を受ける。これ自体が、まず不正な癒着を疑われる「地雷原」です。接待する側があらかじめ準備し、事前に予約することで初めて成立する「特定の目的を持ってなされる会食」です。
 もし貴方が総務省の幹部官僚で、一切の不正に手を染めないという倫理観を持っているなら、会食の席で何に注意するか? 当然ですが「放送事業などの許認可に関わる話は一切しないこと」を最初から最後まで意識し、言葉を選ぶはずです。そんな話題を振られても、答えずに話題を変える。最後までそれをやり遂げれば「自分はこの会食の席で、放送事業などの許認可に関わる話は一切しなかった」という安心感で店から出られます。

重要なのは、問題のポイントは「その話をしないことに最大限の注意を払い続けたか否か」だということです。
ポイントは「記憶」ではなく「注意を払う努力」の有無にあり

 自分以外の誰かの話であれば、会食の場で「彼が特定の話題に言及したかどうか記憶にない」こともあり得ます。それは「彼の話を脇で聞く」という傍観者の立場で記憶されるものだからです。

 自分の行動に関する話なら、心に「その話題の話は絶対しないという決心」が存在したか否かがポイントになります。それがあれば、確認を求められても「いいえ、放送事業などの許認可に関わる話は一切しませんでした。なぜなら、公務員として、そのような話はしてはならないと承知しているからです」と明言できるからです。

 つまり、自分が発する一つ一つの言葉に注意を払いながら会話しているなら、許認可に関わる話をしたかどうか記憶にない、という状況は起こり得ません。
 そして、省庁の幹部になるような人間は、同期との競争を勝ち抜く上で不可欠な、ずば抜けた記憶力を備えている上、省内での自分の立場を常に意識しており、失脚や左遷に繋がるようなリスキーな行動はとりません。許認可対象の放送事業者からの接待という、リスクの高い場に出向くのは、省内で力を持つ上司がそれを了承している場合に限られるでしょう。
 従って、野党議員や報道メディアの記者が問うべきは「そのような話をしてはいけないと注意を払う努力をしたか否か」です。この形の質問なら「記憶にありません」という返答は通用しません。そう答えたら、その時点で国家公務員失格となるからです。もし「その努力はした」と答えたら、「努力したのなら『その話はしていない』と明言できるはずですよね?」と追及できます。

 政治家や官僚が言う「記憶にありません」という台詞は、その時に「公言できないヤバいことを自分がしたという記憶」がしっかりあるからこそ使う詭弁です。もうそろそろ、こんな陳腐で芸のない詭弁を社会で通用させるのは、やめにしませんか?

タグ:詭弁
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詭弁ハンター 3回目、「控えさせていただく」という詭弁 [思考の型]


本当はこわい「控えさせていただく」という詭弁。強者と弱者を固定化するマジック  文=山崎雅弘


 第二次安倍晋三政権で次々と安倍首相がらみのスキャンダルが発覚した時、当時の安倍首相や菅義偉官房長官、そして不正疑惑への関与を疑われた官僚たちが、揃って「何々が何々なので、お答え/説明を控えさせていただく」と口にした。


この台詞が発せられると、野党議員や記者は、まるで行く手にバリケードを置かれたように立ち止まり、それ以上相手を追及するのをやめてしまいました。この台詞は、相手の質問を封じる効果という点では、今までのところ万能に近い「キラーワード」ですが、これも実は詭弁です。そして、これは単なる「はぐらかし」に留まらず、発する者とその相手との関係を上下の構造に固定化してしまう、きわめて危険でおそろしい詭弁なのです。


首相や大臣、および内閣の指示を受けて公務を行う公務員は、国政に関わる問題や不正疑惑の追及に対し、本当のことを説明する義務を負っています。「その質問には答えたくないのでパス」という返事は許されません。 政治家や官僚が、見た目は謙虚な態度で言う「お答え/説明を控えさせていただく」という台詞は、論理的に考えれば、「その質問には答えたくないのでパス」という返事と、まったく同じです。何が違うかと言えば、「控えさせていただく」という言い回しが持つ、謙虚で奥ゆかしいような雰囲気ですが、実際にやっていることは高圧的な「返答の拒否」であり、謙虚どころか、きわめて傲慢な振る舞いです。

「控える」という日本語は、新村出編『広辞苑』第七版(岩波新書)には、いくつかの意味が記されていますが、質問への返答という動作に関わるものとして、「(個人の事情や他者への配慮などから)ある行動をとらないようにする。見合わせる」という説明があります(2434ページ)。
野党議員や記者は、「控える」という台詞を発した相手が、何かしらの「配慮」をしているのだ、と勝手に善意で解釈して、引き下がっているようです。しかし、本当ならそこで、一見もっともらしい謙虚さの芝居に騙されず、 「貴方はいま『控える』と言われた。それは具体的に、誰に対するどのような配慮なのですか?」と言わないといけません。。
首相や大臣ら公人の説明責任と企業のクレーム対応の違い


「個別の何々なので、お答えは差し控える」というのは、日本語として成立していない詭弁です。個別の何かであっても、答えなければならないことに関しては、答えないといけない。「個別の何々なので」は理由になっていない。


「個別の何々なので」という台詞にだまされる人が多いのは、企業のクレームや問い合わせへの返答でよく見かけるフレーズだからでしょう。「個別の理由についてはお答えを差し控えさせていただきます」という説明を、企業の広報担当者はよく使います。


この企業の態度については、社会的に許容される面もあります。膨大な問い合わせにいちいち返答すれば、業務に支障を来しますし、全ての問い合わせに必ず回答しますとも約束していません。違法行為の疑いがあれば、説明する社会的責任が生じますが、それ以外の状況では、企業側の権利として、「お答えを差し控える」ことが認められています。
 しかし、権力を握る首相や大臣、それに事実上仕える公務員は、こうした一般企業の場合とはまったく事情が異なります。彼らは、公務に関する「説明責任」を国民に対して負っており、国民の代表である野党議員や国民の代理人的な立場でもある記者から、政府の権力行使や不正疑惑に関する質問を受ければ、中身のある説明をしなければならない立場です。
「強い立場」対「弱い立場」という関係の固定化
 もう一つ、この詭弁には目に見えない、おそろしい「仕掛け」が隠されています。その「仕掛け」とは、「控えさせていただく」式の詭弁を「強い立場の者」が発し、それを「弱い立場の者」がそのまま受け入れてしまうと、「強い立場」と「弱い立場」という上下関係が固定化されてしまう、という心理的効果です。
 例えば、我々一般人が税務署に対して「今年は、納税は控えさせていただきます」と言って税金の納付を拒絶することができるでしょうか? 学校の生徒が担任教師に「今回は、宿題の提出は控えさせていただきます」と言えるでしょうか?
 この詭弁は常に「強い立場の者」から「弱い立場の者」に向けて発せられます。そして、それが詭弁だと見抜かれず、質問者が引き下がれば、その瞬間に「強い立場」と「弱い立場」という上下の関係が、さらに一段階、強固なものになってしまいます。


 実際には、「説明/コメントは控えさせていただく」という台詞は「お前の質問には答えてやらない」という傲慢な言い草です。「控える」という言葉が持つ謙虚な響きにだまされて、そこに隠された傲慢さに気づかない人が多い様子ですが、自分が「強い立場」だと自覚している人間しか、この言葉を発することはできないのが現実です。


(山崎雅弘)


タグ:詭弁
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詭弁ハンター 2回目、「首相機関説」で読み解く [思考の型]

日本学術会議問題を「首相機関説」で読み解く 菅首相の“詭弁”に二度と騙されないために  文=山崎雅弘
菅首相は、日本学術会議の推薦者6人を任命しなかった、自身の任命拒否について聞かれるたびに、繰り返し「任命権者」と「人事」という言葉を持ち出して、その判断を正当化しています。そして、この一見もっともらしい菅首相の説明を聞いて、なんとなく「そういうものかな」と思ってしまう人も少なくないように見えます。
結論を先に述べると、この2つの言葉を持ち出す菅首相の説明は、明らかな詭弁です。
 内閣総理大臣は、日本学術会議の会員任命という作業において、自由選択を前提とする本質的な意味での「任命権」など持っていませんし、日本学術会議法に基づく会員の任命は、一般企業で使われているような意味での「人事」でもありません。
1983年5月12日に中曽根康弘首相(当時)は、参院文教委員会で次のように答弁しました。
「これ(任命)は、学会やらあるいは学術集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命に過ぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば」
よく似た2つの言葉が使われている。「任命」と「任命権」です。前者は、任命という行為自体を指す言葉ですが、後者は自分個人の考えを反映させる形でその行為を行える「権限」を指す言葉です。
菅首相は、この本来意味が異なる2つの言葉をわざと混同して使い、歴代の政権が継承してきた「任命」という形式的行為に、首相個人の権限が介在する余地があるかのように国民を錯覚させるために、「任命権者」という似た言葉を紛れ込ませています。
unnamed.jpg この詭弁のトリックを読み解くには、過去の歴史的事件を参考にするのがわかりやすいかと思います。それは、1935年に起きた「天皇機関説事件」で有名になった、「天皇機関説」という憲法解釈の考え方です。そこでは、当時「神聖不可侵」とされていた天皇であっても、実際の権限行使はすべて「憲法に基づくもの」でなくてはならず、天皇だからといって何をしても許されるわけではない、との解釈がなされていました。
 日本学術会議法に基づいて、内閣総理大臣が行う任命という行為(「任命権」とはまったく異なる概念であることに注意)は、あくまで「手続きを行う国の機関」として、首相個人の好き嫌いや思い入れなどを完全に排した形でなされなくてはならないものです。
 よく似た言葉をさりげなく使って論点をすり替えるのは、詭弁でよく使われるテクニックです。今後も、菅首相はこの詭弁を使い続ける可能性が高いですが、野党議員や政治記者は「その説明は詭弁だ」と指摘し、国民も詭弁にだまされないようにしましょう。

続く

タグ:詭弁
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詭弁ハンター 1回目、菅義偉首相(当時)が述べた「詭弁」 [思考の型]

比較的見つけやすい「ウソ」、それよりも見つけにくい「詭弁」。「詭弁」を見抜くためには、本来その論があるべき「正しい姿」を頭の中で組み立てる「論理力」が必要とされる。
今回は、2020年11月25日の参院予算委員会において、菅義偉首相が述べた「詭弁」
共産党の田村智子参議院議員は、菅首相にこう質問しました。
「(日本)学術会議のホームページを見てみますと、何ページにもわたって、(菅首相による6人の任命拒否に抗議する声明を発した)大学・学会・学協会の名前がずらりと並んでいく。まさに空前の規模です。総理、まずお聞きしたい。なぜこれだけの規模で、短期間に抗議や憂慮の声、任命を求める声が学術界に広がったと思いますか?」
菅首相はこう答えました。
「理由については、人事に関することでもあり、お答えすることは差し控えたい。この点も、これまであわせて説明をしてきたところ」
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 実に「五重の詭弁」が、この短い答弁に仕込まれています。
第一の詭弁は「抗議が拡大した理由の認識」を問われているのに「6人を任命しなかった理由」について問われているかのように論旨をさりげなくすり替えた上で「(任命しなかった)理由については答えられない」と、全然関係ない話を始めていること。
第二の詭弁は、田村議員の質問は「学術界の反応」に関する内容なのに、あたかも「人事のこと」を聞かれているかのように論旨をすり替えた上で「人事に関することだから答えられない」と説明していること。
第三の詭弁は、仮に質問の内容が「人事のこと」であったとしても、菅首相には「なぜこのような『人事』を自分が行ったか」を説明する義務が課せられているのに、あたかもそれを説明しない「免責事由」が自分にあるかのような虚構を創り出していること。
第四の詭弁は、菅首相には内閣総理大臣として下す決定についての「説明責任」が常に課せられているのに、それを「控える」という一見すると謙虚な表現で、その義務を果たさなくても許されるかのような錯覚をつくり出していること。
第五の詭弁は、自分が今話しているのは「これまで説明してきたこと」だという、田村議員の質問と何の関係もない主張を持ち出して、あたかも「いま訊かれている質問に自分はもうすでに繰り返し答えてきた」かのような、事実に基づかない自分勝手な虚像を創り出して、質問者と、このやりとりを聞く国民を煙に巻こうとしていること。
田村議員の質問は、本題に入る前の予備的な内容でしたが、実はもう答えが出ています。学術界で抗議の声が広がっている理由は、菅首相の行動が、理不尽だからです。
 しかし、菅首相としては、それを素直に答えるわけにはいかない。「それは、学者が私の態度を理不尽だと思っているからでしょう」とは言えない。質問に「まともに答えない」という態度をとるしかない。それで、苦肉の策として、田村議員に問われている論点を徹底的にはぐらかしつつ、「論理力」があまり強くないオーディエンス(観客、聴衆)を煙に巻いて逃亡できるような、一見もっともらしいが実は内容が空っぽで何も答えていないに等しい「詭弁」がひねり出されたというわけです。
 本来なら、首相や大臣がこんな詭弁を弄して質問をはぐらかし、首相や大臣に付与された権力に付随する説明責任を果たさない態度をとった時、政治報道に携わる報道人が、それを目ざとく見抜いて市民に知らせる必要があります。それが、民主主義国で政治に関わるジャーナリズムの重要な職務の一つです。
もし、首相や大臣の言うことが詭弁まみれで、政治報道に携わる報道人がそれを見抜かないまま、詭弁を「正当な説明であるかのような体裁」で受け手に提示し続ければ、社会はどんなことになるでしょうか。
 その答えが、いまの日本社会の異様な姿だと思います。
続く

タグ:詭弁
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不安の時代の抵抗論 : 災厄後の社会を生きる想像力 [思考の型]

不安の時代の抵抗論 : 災厄後の社会を生きる想像力

不安の時代の抵抗論71ZmzETaBSL.jpg田村あずみ 著
--花伝社 
発売日:2020/06/08
--ISBN:978-4-7634-0931-7


大震災、原発事故、そして感染症―日常に突然生じた亀裂が私たちの生の脆さを暴くとき、希望を語りなおすことはできるのか?当たり前の生活すら困難になり、すべてに疲弊しきった現代人が「ここではないどこか」を想像し、抵抗への一歩を踏み出すことは可能なのか。3・11後の路上に現れた政治実践から、今、私たちに本当に必要な“手の届く希望”を探る。



◆目次◆

第一章 「抵抗」はなぜ想像不可能になったのか

第二章 「外部」を思考するということ

第三章 路上の想像力(1)名前のない個

第四章 路上の想像力(2)情動と反響

第五章 路上の想像力(3)運動の継承

第六章 抵抗の知性と希望


田村あずみ(たむら・あずみ)

1980年生まれ。

立命館大学国際関係学部卒業後、新聞社勤務を経て、英国ブラッドフォード大学大学院博士課程修了。

著書に「Post-Fukushima Activism: Politics and Knowledge in the Age of Precarity」(Routledge, 2018)。

現在、滋賀大学国際交流機構特任講師、立命館大学国際地域研究所客員協力研究員


=================

1章と2章では、この「抵抗の不可能性」について論じました。現代の私たちは、「敵」が見えなくなっているのではないか。先行き不透明な社会の中で、多くの人が生活の安定を得るために会社の理不尽な要求に従うなど、自発的に「隷従」しているような感じがある。敵は自分の外にいるのではなく、すでに自分の中に取り込まれてしまっているのが今という時代なのではないかと思うんですね。
 そういう時代には、抵抗や連帯の政治思想が生まれてきづらい。ぎりぎりの生活の中では、他者の苦しみに共感して連帯することが難しく、そこから絶望的な諦めや無関心、冷笑的な空気が生まれてきているのではないか。そこを脱して、今の時代に即した抵抗論を見つけ出していきたい。それも、誰かが提案する「答え」に安易に飛びつくのではなく、自分自身が感じている絶望の底にまずは降り立って、そこから希望を探求していきたい。そんな思いから、この本は生まれました。
 第3章以降では、2011年の福島第一原発事故以降の、主に首都圏での反原発運動を取り上げています。
 原発事故という災厄は、私たちの日常に突如生じた亀裂のようなものだったと思います。そしてその亀裂によって、既存の秩序や権威への信頼が崩れたとともに、そこから不可視化されてきた他者の存在が現れた。それは福島の人々や原発労働者、あるいは未来世代など、自分たちがリスクを押しつけてきた他者でした。そうした「他者」と自分の存在とがリンクしたときに、自己のアイデンティティが揺らぎ、それまでになかった新たな想像力が要求されるようになった。3・11後の反原発運動は、それへの応答の一つの形だったと思うのです。
 そして、事故の後、最初に人々を動かしたのは「情動」だったと思います。参加者へのインタビューでも、混乱や不安で「居ても立っても居られなかったから路上に出た」と話す人が何人もいました。混乱の中で生まれた情動が政治的な行動のモチベーションになり得るというのが、まず一つの発見だと思います。
 こうした情動と政治的行動との接続には、不寛容や無責任さが助長されるなどという批判もあります。しかし私には、路上で反原発を訴える人たちは、原発事故によって露呈した人間の不完全さを受け入れた上で、なお倫理的に行動するための技法を模索しているように見えました。その一つが、災厄という亀裂によって見えてきた「他者」から目を背けず「開いている」ことです。デモ参加者の語りの中には、「放っておいたら自分は事故のことをすぐに忘れてしまうから、戒めとしてデモで他者の言葉を聞く」というものがありました。自分の日常を完全に閉じてしまわず、たまにでも外に開くための場という意味も、デモにはあるのかなと。
また、「デモの頭数になりに来た」「世の中をよくするための礎になりたい」といった言葉も印象的でした。そして、そういう人たちの多くが、同時に「この場にいることが心地いい」「自分のためにやっている」という、自己満足とも取れる言葉をも口にするのです。
 ここには、自分の人生が周囲の環境に制約を受けることを受け入れつつ、なお「自分のために」行動するという、受動と能動が重なり合うような響きがあります。そこでの「自分」とは、独立した個というよりも運動の中に溶け込んだ「個」。そうした「溶けた個」として、社会に変化をもたらすことのできる自己に誇りや喜びを感じている──。それは今までにない、非常に特徴的なアイデンティティのあり方であって、そこにも倫理性があるのではないかと感じました。
 本の中でも引用したのですが、ジョン・ホロウェイという社会学者が、抵抗というものについて「道をたずねながら、われわれは歩く」のであって、そこには「正しい答えなどない、あるのは何百万もの実験だけだ」と言っています。その「何百万もの実験」を繰り返すことを可能にするような知性を、反原発運動の参加者たちは育んできたといえるのではないか。そんなことを考えながら、この本を書きました。
   より

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自発的隷従論ーちくま学芸文庫-番号ラ11-1 [思考の型]

自発的隷従論--LaBoétie002.jpg 自発的隷従論  原書:Discours de la servitude volontaire
ちくま学芸文庫   ラ11-1
著者名1 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ /著 
 西谷 修 /監修  山上 浩嗣 /訳  
出版者 筑摩書房
出版年 2013.11
ISBN 978-4-480-09425
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館

内容紹介 16世紀フランスの若き俊秀/ド・ラ・ボエシ,エティエンヌ/による、なぜみずから屈し圧政を支えるのか。支配・被支配構造の本質的構造を容赦なく喝破した稀有の古典的名著。
本作と重ねて20世紀の全体主義について論じたシモーヌ・ヴェイユの小論と、政治人類学者ピエール・クラストルが本作をベースに「国家に抗する社会」としての未開社会を分析した論考を併録する。。
目次
自発的隷従論 (一者支配の不幸;多数者が一者に隷従する不思議;自由への欲求が勇気を与える;自由はただ欲すれば得られる;民衆は隷従を甘受している ほか) 7-170 頁
服従と自由についての省察 シモーヌ・ヴェイユ/著  177-190頁
自由、災難、名づけえぬ存在 ピエール・クラストル/著 191-223頁
不易の書『自発的隷従論』について 西谷 修/著 225-248頁
著者等紹介
ド・ラ・ボエシ,エティエンヌ [de La Bo´etie,´Etienne]
1530‐63年。フランスの小都サルラ生まれ。早くにオルレアン大学に進学、法学とともに人文学への造詣を深める。54年にボルドー高等法院に評定官として着任、のちに同僚となるモンテーニュと友情を結ぶ。相次ぐ宗教争乱に対して、宮廷の宥和政策を支持して事態収拾に奔走したが、63年病に倒れモンテーニュに看取られながら世を去った
西谷修[ニシタニオサム]
1950年愛知県生まれ。東京外国語大学教授
山上浩嗣[ヤマジョウヒロツグ]
1966年大阪府生まれ。大阪大学准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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ラ・ボエシは、本当に効果的な武器として、非協力の戦略、つまり非暴力の不服従の形態を理論化し、提案した最初の一人である。
解説「不易の書『自発的隷従論』について」で、西谷修はこう述べている。
 「この小著の眼目は、圧政が支配者(しばしばただ一人の者)自身の持つ力によってではなく、むしろ支配に自ら服する者たちの加担によって支えられると論じた点にある。強権的支配や圧政が問われるとき、たいていの場合人は、支配者の側に圧倒的な力を想定し、それによって弱者が受難を強いられると受けとめる。そして力の独占と専横、その圧政を被る犠牲者、言いかえれば加害者と被害者、強者と弱者といった図式があてがわれ、そこに善悪の判断を重ねて「強者=加害者」の悪を告発する、といった構えができる。
d0238372_1440417.jpg だが著者〔ラ・ボエシ〕は、この図式よりも先に、支配秩序に関わる人びとの具体的な相を見る。支配者が一人ではそれほど強力で残忍だとは見えないにもかかわらず、古今東西どこでも「一者の圧政」が広まるのはなぜなのか。獣たちが檻を嫌うように人間の本性はもともと自由を好むものではないのか。それなのに、人びとは隷従を求めるかのように支配に甘んじ、支配されることのうちに自由や歓びを見出しているかのようだ。この不条理を前にラ・ボエシは、なぜ人びとはかくも従容として隷属を選びとり、ときにはそれを嬉々として支えさえするのか、と問う。要するにかれは、圧政の正邪を論じるのではなく、そのような支配を可能にしているからくりを「人間の本性」から探ろうとしている。その意味でかれは、政治論者であるよりも人文主義者(ユマニスト)なのである。そしてかれがそこに見出したのは「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳」であり、名指されることのなかったその悪徳にかれは「自発的隷属」という名前を与えたのである。」

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