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迷えるキリスト者=椿氏を批判する② 公開質問状 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

く被害者の救済か、切捨てか 迷えるキリスト者=椿氏を批判するく>②
                                                 高  見     優
(1)は じ め に・・・・・①
(2)患者サイドに立つ (1965年~1973年)・・・・①

(3)立場をかえる(1973年~)
  1973年、有明海、徳山湾のいわゆる「第3・第4水俣病事件」のとき、熊大第2次水俣病研究班(班長、武内忠男 病理学教授)が出した第3水俣病発生の結論を環境庁は、椿氏らを専門委員とする「健康調査分科会」で検討し、熊大の結論を否定してしまったのである。当時は、「水銀パニック」というマスコミの表現がピッタリの状況が日本列島をおおい、国民は魚を敬遠し、魚市場では魚屋さんが自衛の手段として水銀分析装置まで準備し、そのデータの信用度が学者との間で論争となるという事態にまで発展したほどだった。
椿氏らの分科会力瘤大の診断を否定した記者会見での出来事―
「ある記者が『2年間
に及ぶ研究の結果と数分間フィルム(患者の運動機能をみるために撮られたという)を見ただけの判断と、どちらを信用したらよいか』へ質問したところ、椿氏は、『君、失礼じゃないか、答える必要はない!』と机をたたいて激怒、顔面蒼白にしてそっぽを向いてしまう一幕があった。」という報道がある。(雑誌「青と緑」1973年10月号、<不毛の医学論争を排す>)これを引用して、武谷三男氏は次のように述べている。「科学的な問題に対して、いかなる質問をされても科学者は矢礼だと言って怒る理由はないのである。こういうことに対して答える必要がないというのは全く科学的態度とはいえないのであり、やはりちゃんと説明すべきではないか。これは医者の特権意識に基づいている態度である。」(「医療と人間と」4号 1974年1月) 私も、これに賛成である。武谷氏は又、「特権は差別につながる」とも言っている。
 椿氏は、この頃から国の立場(それはそのまま企業の立場につながる)に立つようになる。新潟の認定審査会でも認定基準の見直し、ワクを狭くしていく。新潟県議会(1974年7月23日、公安厚生委員会)で参考人として質問されたとき、氏は「かつて、環境庁の通知がでたとき広く認定した方がよいと言われ、それに影響されて医学的には50%の可能性で病気を診断するが普通のやり方であるのに、それ以下の人も認定してしまった。今思うと、水俣病でない可能性の強い人も認定患者の中にはいる。それは不幸なことだから見直しすることも考えている。」と答弁した。かつて、医学が政治の影響を受けたことがあったが今は純医学的に認定審査を行なっているというのである。(この「純医学的」という言葉によって氏が語っている「科学」と氏の「科学者」としての社会的役割については、昨今の原発安全神話を保障する「科学」「科学者」の問題などに共通する基本的な重要問題があるが、そのことは別の機会にふれたい。)
 当時、阿賀野川流域住民の中には、「補償金で家を建てた」とか「毎日、仕事に通えるくらいの病気で認定された」などと、患者に対して陰で中傷するものがいたが、この椿発言によって、一層露骨にニセ患者」呼ばわりする風潮が生まれた。そして、年々悪化する身体にがまんを重ねていた患者が思い余って申請しようとすると迫害が加えられた。さらには患者同士の正統争いと不信感、申請患者、棄却患者の認定患者への悪口………、本来、同じ被害者同士としていたわり合わなければならないはずの人たちの分裂。新たな差別が始まり折角、裁判にうってまでようやく得た被害者としての市民権もうばわれ、新たな被害者となっていった。 精神的に一、社会的に―。
 一方、椿氏は、この重大な発言のひきおこした惨状を放置し、その頃大学内にも「椿先生は、最近は余り水俣病患者を診なくなった」との批判の声がでてきた。
  1980年には、椿氏は、新潟大学を自ら辞し、東京都立神経病院長となる。しかし、どういうわけか新潟水俣病認定審査会長の戦だけはひきつづきとどまる。医師として治療することは新潟では全く行なえなくなったが、審査会のランクづけ作業のためにだけわざわざ来るという状態が現在まで続いている。
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迷えるキリスト者=椿氏を批判する① 公開質問状 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

く被害者の救済か、切捨てか 迷えるキリスト者=椿氏を批判するく>①
                                                 高  見     優
(1)は じ め に
  今回の審査会の「回答」は、実質的には椿忠雄会長が一人で書いたものであろう。内容上からも、数人の審査委員の「私は回答しようと思っていたが、椿先生の方でまとめて出されるという ので私は出しません」との発言、そして「回答」の表書きの追伸「私の医療に対する考えの一端をおくみいただくため……」という書き方から見てもこのことは間違いないと思われる。(ただ し、各委員は椿氏の回答を見せられて同意はしたものと考えられる)
  「回答」の内容を見ていくと、椿氏の様々な「顔」が見えてくる。即ち、「医師」「行政官」「政治家」「哲学者」「企業擁護者」「自信たっぶりの専門家」そして「キリスト者」等々……
  何故、一人の人間がこのように様々な顔をもち、私たちに向かってくるのか。それは恐らく椿氏が、かつては患者サイドに立つ人であったことがあり、現在はそれに敵対する立場にいるという両極端の立場を経験しているためであろう。そして、そのことが氏の内面にも影をおとしているのであろう。

(2)患者サイドに立つ (1965年~1973年)
  1965年6月12日、椿氏らは新潟水俣病発生を公表した。東大の気鋭助教授だった椿氏は、新潟大学神経内科の教授に推され、同年1月頃には時々新潟に来ていた。その頃、ある筋から水俣病らしき症状の患者を紹介され診察している。同じ頃、N健診機関のI医師が阿賀野川流域の住民検診でやはり水銀中毒らしい患者を発見している。 I医師が椿氏に話したところ椿氏は、「体温計の水銀でも飲んだのではないですか。ハハハ…」と言われたという。「あのとき、私もしっかり追跡しておれば、今頃有名になったかも知れないナー」と、語っていた。(実は、このエピソードにおける一般開業医などの初期情報の重要性は一つの教訓だと思うのであえて紹介した) いずれにせよ、かなり早い時期に相当多くの人が水銀中毒患者に気づいていたのだ。
  実は、椿氏自身も遅くとも1965年1月にはハッ牛リと水銀中毒の発生を確認していたようだ。
 新潟大学医学部で椿教授に指導を受けたというM医師(キリスト者)は、「学生のとき、椿先生が『実は水俣病についてはかなり前にわかっていたんだが、それをすぐに発表すると大問題になるので、充分手をうってからにしようと発表を遅らせた。』と言ったので「先生はキリスト者でもあり、しかも医師なのだから、患者の救済のためにはすぐに発表すべきだったのではないか。社会的な配慮は行政の仕事ではないのか。」と質問をしたら『いや、あの時の判断は、あれで正しかったと思っているjと答えたことがあった。」と述べている。椿氏の水俣病問題の苦悩は、既に18年前の事件発生のときから始まったのだ。
  恐らく、公害が騒がれ、社会問題化する初期の頃は、行政の姿勢にしろ企業の態度も今とは別の意味で強固であったと考えられる。その中で椿氏らは死亡した患者についても開業医のカルテなどによって水俣病と診断(認定)したり、下流に限定されていたようだが疫学的な手法をつかって積極的に患者を見つけ出し医療をほどこすなど、まだ若かった氏は現地に何度も運んだという。
  今回の「回答」で氏は、「(水俣病発生の)家族集積性」についての質問に対して「最初にこの問題を指摘した私どもにこの質問をされることは残念です。」と答えているが、私たちこそ氏に対してこのような質問をしなければならない最近の実態(家族を含め生活の中で診察・診断を全くしていない)を深く憂うる。
  椿氏は、第一次新潟水俣病裁判(1967年提訴-1971年9月原告患者側勝訴―確定)では、患者側証人に立ち、患者の訴えを全面的に支持し、判決当日には裁判所までかけつけ患者らを「祝福」することまでしたくらいだった。
  又、スモン病については、最初にキノホルム薬害説を発表したのが椿氏であったが、この発表に関して氏は、新潟水俣病のときの苦しい経験から「可能な限り思いきって早く発表した」と述べたことがある。M医師への答えにも拘らず、やはり氏としても反省すべきところがあったのではないか。当時、キノホルム説については、時期尚早だとする向きが学界では有力だったという。
  1970年、中央薬事審議会が厚生省に「キノホルム販売中止」を答申したとき、椿氏は「-この答申の決定をきいた時、これでスモンの発生はなくなると思い、涙が流れるのをとめることができなかった」(学術月報26巻9号、1973.12)と述べている。
  以上に見られる勇気ある椿氏が、いつ、そして、なぜ、現在のような立場に移っていったのであろうか。
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「無辜なる海」新潟県内連続上映会 上映記録 感想集より患者訴え [新潟水俣病未認定患者を守る会]

「阿賀に生きる」製作の基盤をつくった「無辜なる海」の新潟県内の21ヵ所33回の上映会

上映記録

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感想集 表紙、目次

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 (1)患者の声

 ① 逆流に抗して(原告陳述より)      五十嵐 幸栄

 私は津島屋で生まれ津島屋で育って今日に至って居るのでございますが、昭和三十九年の秋頃から手足がおかしくなり、夜も満足にねむれず、あちこちと医者にかかりましたがさっぱり良くならず、畑の草とりも思うように行かなくなり長い間困って いました。

  昭和四十年の頭髪検査の成績はー〇四PPMもあり、昭和電工の流した水銀が体に入っていることがはっきりしていましたが、当時町内の役員をしていた関係で大変忙しく呼び出しを受けた検査を受けに行く瑕がなく、のびのびになっているうちに認定基準が変わって棄却されてしまいました。私と同じ日に申請した人は認定されておりましたし、私と同じ魚を同じ料理で食べていた私の妻も認定されています。

  何故に私が棄却されなければならないのでしょうか。私の毛髪水銀一〇四PPMとは、いったい、どこから来たというのでしょうか。認定基準が患者切捨ての道具に変わってしまったのです。私は、現在もしびれや耳鳴り、頭のじんじんとする何ともいわれない痛みに苦しんでいます。

  私だけでなく、原告の皆さんはみんな阿賀野川の魚を食べ、昭電の流した毒におかされて同じ苦しみをしており、主治医からも水俣病といわれているのに、認定申請がすこし遅れたために認定されなかったのでございます。病気にさせられて日夜苦しみながら、病気と認められない二重の苦しみ、これが新潟の患者のおかれている実情でございます。

 私どもがこんな苦しみをしなければならないのは、水俣病が鹿瀬工場の垂れ流した毒によって起った事を知りながら、昭和電工が同じ毒を長い間阿賀野川に垂れ流したためであり、国が再発生防止の対策を何もしなかったからでございます。

 その上、主治医が水俣病と診断している患者を、行政が水俣病と認めないため、被害者は何の救済も受けることが出来ず、放り出され死を時つしかない有様に陥れられているのでございます。

 私どもが裁判を起しましたのは、私どもが被害者として補償を要求する権利があると考えただけでなく、先程申し上げたような間違ったやり方をただして公害をなくし、国民の安全を守らなければならないと考えたからでございます。心からご理解、ご支援を願うしだいでございます。 

②一日も早く救済を        小 泉 友三郎

 昭和四十年六月十二日、新潟大学の椿教授らが、阿賀野川流域の住民内に、第二の水俣病患者が発生していると発表。それから十八年余り経過しましたが、いまだに千人以上の患者が、新潟水俣病のために日夜苦しみながら、環境庁、新潟県、新潟市に水俣病と認定し救済するよう訴えています。
 なかでも県に対しては、患者の苦しみと不安をなくするために、ために日夜苦しみながら、環境庁、新潟県、新潟市に水俣病と認定し救済するよう訴えています。
 なかでも県に対しては、患者の苦しみと不安をなくするために、経済的援助、医療費の公費負担などを要請しています。

七年七ケ月も放置されて
 私は、昭和五十一年一月に、県の下した水俣病と認定しないという行政処分に対する不服審査を、環境庁長官に提出しました。ところが、結果(棄却)か出たのが五十八年八月二十四日、この間七年七ケ月余りの長期の審査だったのです。
 皆様方は、いかに存じますか。私は不作為も誠にもって甚だしい、行政には信頼が今後ともおけません。今も怒りをおぽえる次第です。

 再び、水俣病認定を串請
 右の不服審査中の昭和五十六手九月、再び県に対し新潟水俣病との認定申請を提出しました。そして五十八年一月から新潟大学の付属病院において、のべ十八回の検診がありました。そして同年十一月二十一日の新潟県水俣病認定審査会の審査を経て、十二月九日付で県知事により水俣病と認定されました。

半信半疑、今は複雑な気持ち
 こうして第一回の新潟水俣病申請は棄却され環境庁への不服審査も棄却され、県への再申請が三度目の正直となり、私の日頃……目的達成の……念願がかないました。

  哀歓ひきこもごも感無量の心境です。喜こんでよいのか、悲しんでよいのか今の私にはわからない気持で、夢なら醒めずにと合掌しています。

  新潟水俣病共闘会議をはじめとして、皆様方のご支援の賜ものと深く謝意を表し、厚く御礼申し上げます。
  このうえは、被害者の会の皆様方と団結して、第二次水俣裁判を 勝ちとるまで頑張りましょう。


水俣認定審査会回答についての検討会 公開質問状 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

く3 -26 公開質問状の回答についての検討会開く>
                                                 守る会事務局
 検討会は、水俣病被害者の会より、4地区7名の患者さんを含め、市民各層の参加で熱心に話し合われた。当日の主な内容は次のとおり。
(1)「審査委員の中には、自分では患者を診察しない人もいる」という回答について
  患者さんは、「実際に一度も水俣病患者を診ないで審査ができるのか」「産婦人科の人が我々を審査するのか」などと述べた。
(2)「水俣病の全体像が医学的に明らかになった」「全身病ではない」について
 「自分は40代で白内障の手術をうけた」「体質によっては糖尿病など内臓にも影響があるのではないか」「患者の中には歯が悪くなる人が多い」などの発言があいついだ。九州では「医学的に明らかになったとは思わない」という審査会の回答があり、新潟の審査会は思いあがっているのではないか。

(3)審査会のランク付けについて
  Hさん(水原町)「そもそも①②③……などのランクをつけたのは誰なのか。ラジオ体操じゃあるまいし―。自分らは魚を食べて身体が悪くなったんだ。体力がちがうから重い人も軽い人もいるが水俣病には違いはない」「妻が足が悪くなり、つまづきやすくなった。棄却され県に聞きに行ったら『下半身は水俣病だが上半身はそうではない』と云われた。バカにして-。」
  Wさん(水原町)「結局、棄却するためにつくられたのがランクだ」「くしゃみしても熱が出ても風邪には違いない」「胃カイヨウなら手術するくらい悪いのも、薬を飲むだけのも同じ胃カイヨウだ。水俣病だけ何故ランクづけするのか。」
  Hさん(安田町)「ランク付けは、医師が治療するときに必要なものであるはず。治療しない審査会はランクづけの必要ない。」
  そして④ランクが「判断できない」と答申しておきながら、県が④ランク以下を棄却処分にしていることを知っている-と、回答している審査会に対しては無責任だという声が出た。
  一番、議論になった所である。
 (4)逆転認定されたWさんについて
  椿審査会は、今も「Wさんは水俣病でない」という態度。県から認定したという報告はあったが諮問はなかったという回答。
  「国の裁決で、椿審査会が4ランクに答申した判断を誤まりだとしているのに、椿は国の担当医師より自分の判断の方が正しいと今でも思っているらしいが思いあがりだ」「しかし、県が独自に認定したというなら、今後は行政にも交渉していこう」「椿先生は自分の判断に自信があるなら、県にキチンと意見を言えばいい」……

(5)審査のやり方について
  「九州では全会一致制なのに、新潟では合議制という。同じ国の公害病認定制度なのにやり方 が違うとは-。」「議事録がないとは。一体誰が責任をとるのか」「主治医や本人に審査内容を 知らせないのはおかしい」「主治医の診断書を尊重して認定すべきだ」
 全くおかしい審査会だ。

               
(6)医師としての立場というが
  「患者が治療を求めてくるなら適切な治療をするのがよいと言いながら主治医にも病名を教えないという。」東京にいる椿先生に治療してもらうのは、実際には、ほとんど不可能です。
(7)要望・意見など
  Iさん(安田町)「本人が第一だ。もっと医師に自分で訴えていこう」
  Kさん(新潟巾)「最近、再申請の精検がはじまったが、過去と比べて格段にていねいに診てくれる。しかし、眼科で診断書を出してほしいと頼んだが裁判につかうのならダメだと言われた」
  Hさん(水原町)「とにかく、なりたくてなった病気ではない。基準やランクは不必要だから撤廃してほしい」
  Iさん(安田町)「魚をあまりたくさん食べていないと思われているらしいが、それが不満だ」
 Iさん(新潟市)「昭和40年のとき、自分の毛髪は104ppmだった。このデータは、今どうなっているのか。」
 最後に全員の声。
  「この回答ではわかりにくい、直接、審査会と交渉してわかりやすく説明してほしい」「県にも、これとは別に交渉すべきだ」

(感 想)
 患者さんの審査会(=椿氏)に対する見方は、大変厳しいものだった。私たち患者でない者は時として、審査会の医師や行政の立場を許してしまう甘さをもっている。被害者の具体的事実の数々が力をもって訴えかけてきた。
 公開質問状を手渡した時、ある審査委員(新大教授)は「椿さんは、あんなに一生懸命なさっているのに、患者や皆さんから批判されてかわいそうだ」と述べた。又、ある委員は「僕は、水俣病のことは何もわからんのだよ。全て櫓先生にまかせてある」………。いつか、県もこのようなことを言っていたっけ-。                    
(レポート:高見)
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映画・無辜なる海 ちらし 1984年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

「阿賀に生きる」製作のきっかけとなった「無辜なる海」のチラシ
「阿賀に生きる」佐藤真監督はこの映画では助手。この映画の新潟連続上映で「阿賀に生きる」製作の基盤が出来た。

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言葉・笑顔・暮らし・夢・たたかい。
これは不知火海と共に生きる人々をみつめた長篇ドキュメンタリーです。

 すべては、チッソ水俣工場のタレ流した有機水銀に始まる。不知火海にも、この海と共暮らす人々にも、これほどまでに破壊されねばならぬ因果も理由も何もない。無辜(ムコ・何のつみもない)の民、無辜なる海が、未だ消えぬ毒に侵され続けている。

 不知火海に無数に浮かふ天草の島々、漁業ひとすじで暮らしをたてている人々、それ故に汚染から免れることはできない。
 その島々の一つ、御所浦町、横浦島。この島に往む浜本さん一家は、もう長い間水俣病特有の症状を訴えていたが、申請は親子三人とも78年ときわめて遅く、娘の真美さんは生まれた時から寝たきりの子である。母マリ子さんは、真美さんにつきっきりのため、父文則さんは一人で出来る一本釣りに仕事を変え、月に二回は遠く上天草の病院まで舟で通院する日々である。

「無辜なる海」
魂の凝視

この映画を撮る青年たちは、カメラをまわしながら映画を発見してゆくようなみずみずしさがあふれている。描かれているのは、副題が示すごとく有機水銀に冒された人びとの困難な生活ぶりなのだが、なぜいま水俣なのかと問う者に、映画は、水俣には終わりがない、と直截(ちょくせつ)に語りかけている。
 水俣病の実態をめぐっては、すでに土本典昭の『不知火海』を始めとする一連の優れた作品が70年代に撮られているが、『無辜なる海』の特質は、先輩の映画人たちの姿勢を継承しながらも、80年代にふさわしい日常性の鏡に公害問題を反映させ、その重大さを、ゆるやかな時間の移動とともに、じっと見すえた点にある。その結緊、見ているわれわれ自身が、被写体となった水俣の人びとの睡(ひとみ)によって見つめ返されているような緊張感が漂ってくる。

 読売新聞より抜粋
1983年11月14日

 水俣病患者の
 姿に厳粛な感動

 「無辜なる海」は若いスタッフがハ.年の夏から約一年間、水俣に住みついて患者さんたちの日常をとらえたドキュメンタリー。感情的にならず、怒りを抑えて業病と黙々と闘う患者さんの姿を映す姿勢には共感を感じる。おそらく若いスタッフは、水俣病とは何かということより、病気と共に生きている患者さんの現在の姿そのものに心うたれてフィルムを回しつづけたのだろう。病気のため村八分同然になったことのつらさから、二度も娘を連れて自殺しようとした、と当時の苦しさを語る老婆を、カメラをまわしっぱなしにしてとらえたところは厳粛な感動をおぼえる。
 毎日新聞より抜粋
1982年11月14日
       評論家 川本三郎


 水俣から北へ約30キロ、岬に囲まれた静かな漁村。この女島(めしま)部落に住む小崎さん一家は、8人中6人が水俣病に認定され、長男の達純(たつすみ)さんは、生まれながらの胎児性水俣病患者である。青年期にたっした達純さんは、好きな歌のことや、両親への思い、そして「世界の人達に、水俣病のことを本に載せて、例えば、飛行場に本を置いて世界の人達に見せるように・・・ 」と22歳の夏に語ってくれた。

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水俣認定審査会への公開質問状、医療と認定審査 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

質問 15
15 認定されようとされまいと、申請患者は何らかの症状を有する病人です。
(35)医師として、その病人の治療のためにどうしたらよいと思いますか。

(36)審査会で用いた資料や審査内容や答申を、本人や主治医に知らせるべきだと思いますがどうですか。
ア 知らせるべきだと思う           
イ 本人か主治医の請求があれぱ、知らせてよいと思う。’’
ウ 知らせる必要はない
エ その他(                          )
(37)審査会の審理を本人やその同意を得た主治医などの第三者に公開すべきだと思いますが、どうですか。
ア そうしてもよいと思う
イ その必要はない
ウ その他(                        )
(38)病人を目の前にしたら、できる限りの診察・検査・調査をして、病名を診断し、治療にあたるのが医師としての常道だと思います。水俣病の場合も単に「判断できない」や「認めない」とするのではなく、できるだけ正しい診断をしてその病人の病名を明らかにし、治療に役立てるのが医師としての審査委員の責任ではないか と思うのですが、あなたはどう思いますか。
 回答 15
 15
(35) 患者が治療を求めて受診されるのであれば、適切な治療をするのがよいと思います。

(36)
  ウ
(37)
 イ
(38) 通常の診療であれば、正しく診断し治ることを第一に考えます。
 力の及ぶ限りそうしますし、過去にもそうしてまいりました。
  水俣病検診の場合は、水俣病か否かの鑑別診断のための検査をしていますので、必ずしもあらゆる他の病気への可能性を求めて 検査をするわけではありません。
  認定審査会の役割は、申請者が水俣病にかかっているかどうかの判断をして、県(市)に意見を述べることにあります。水俣病を支持する検査所見がない場合、その申請者の症状がいかなる「病気」によって惹起しているかの追求まで、認定審査会は求められておりておません。
 なお、審査の過程で他の病気が分かったものについては、県(市)を通じて申請者に連絡することにしています。
質問 16

16
(39)
審査会でのあなたの行為は、医学専門の行政官としての行為ですか、医師としての行為なのですか。
  ア行政官としての行為
  イ医師としての行為
  ウその他(             )
回答 16
16
(39)
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水俣認定審査会への公開質問状と回答 行政処分 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

質問 13
13 県・市では1・2・3ランクについては認定、4・5ランクについては棄却の処分を行っています。
(31)あなたはそのことを知っていますか。
ア 知っている
イ 知っていない
(32)4ランクは「判断できない」となっています。判断できないものを棄却するのはおかしいと考えますが、あなたはどう思いますか。
回答 13
13
(31)
(32)認定するか棄却するかは行政処分にかかわるもので、認定審査会としてはお答えできません。

質問 14

14 県・市の処分通知書には、「水俣病と認める」「認めない」と書かれていますが、多く場合、申請者はそれを医学的判断(診断)と受けとっています。

(33)処分通知は診断書であると考えてよいのですか。
ア よ い
イ よくない (理由                     )

(34)もし棄却された場合、申請時に診断書を出した医師の診断は誤診ということになりますか。
ア 誤診となる
イ 誤診とはならない(理由
ウ その他(  )

 回答 14

14

(33) イ (処分通知書は、メチル水銀中毒かどうかについての行政上の通知と承知しています。
(34) 二つの異なった診断がなされた時、一方が誤診であるという考え方はありません。特に診断書はしかりです。診断書はそれを書いた時点で診断書の目的に合ったものであれば正しいものと思います。例えば、高熱のために欠勤の診断書を書く時の病名が感冒となっていたとしても、欠勤の理由に合っていればやむを得ないものです。それが後に髄膜炎と診断されたとしても、前の診断書は誤診として責めることはできません。
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水俣認定審査会への公開質問状と回答 行政不服 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

質問 10
10 過日、安田町のYさんが、いったん審査会で4ランクに答申され、県に棄却されていながら、国の行政不服審査会の逆転裁決の結果認定されました。
(21) あなたは、Tさんを直接検診・診察しましたか。
ア 診察した
イ 診察していない
(22)昭和52年の4ランク答申の際のあなたの判断はどのようなものでしたか。またその判断の主要な根拠は何ですか。
(23)国の裁決の中で、昭和52年の審査の際の検診資料では「判断することは困難」の旨述べていますが、この点をどう思いますか。
ア 国の言うとおり困難だった
イ 判断は可能だった        。
ウ その他(  )
(24) その裁決にもとづく県の認定処分を審査会は了承しています。
   あなたはどのような考えで了承したのですか。
回答 10
10
(21) Tさんというのは誤りではないでしょうか。Wさんという人については診察しました。
(22) 当時の検診資料からは、やはりメチル水銀中毒とは言えません。
(23)ウ (国が「提出された検診資料から、直ちに判断することは困難」と思ったとすれば、それは他人が思うことですので、当認定審査会としては特に意見を述べる必要はありません。)

(24) 認定審査会に対して、県の責任において認定したという旨の報告がありましたが、諮問はありませんでした。
 

質問 11

11 審査の結果は、六段階に分けて答申されるわけですが、

(25)ランクの決定方法はどのようになっていますか。  
ア 全会一致制
イ 多数決
ウ その他(        )
(26)審査内容について記録をとっていますか。
ア 審査会としての記録がある。(議事録・テープ・その他)
イ 審査会としてはないが、個人的にとっている。
ウ 全く記録はない。
(27)答申書の文面の第1ランクでいう「指定地域に係る水質汚濁の影響による水俣病」と、第2~第5ランクでいう「全部若しくは一部の症状の発現又は経過に関し、指定地域に係る有機水銀を蓄積した魚貝類の経口摂取の影響」(による水俣病)とは同じ意味ではないかと思われますが、どうですか。
ア 同一の意味である。
イ 異なる。→具体的にどうちがうのか説明してください。
  (                                )
(28) 答申の各ランクをふりわける医学的基準を明らかにしてください。
①ランク( )
②ランク( )
③ランク( )
④ランク( )
⑥ランク( )
⑥ランク( )
回答 11
11
(25)ウ (認定審査会は、各方面の専門家の集まりですので、専門領域についてはその委員の発言が重視されます。その意味で審議は合議制とでも言えましょう。)
(26) 認定審査会としてはありません。
(27)答申区分の考え方は(28)で述べるとおりですので、それがお分かりになれば、①ランクと②~⑤ランクの答申文面が同じ意味でないことは明らかです。

(28)メチル水銀中毒の可能性が多い順に①~⑤ランクに分け、⑥ランクは資料不足などの理由で再検査をするものです。
質問 12
12 現行の補償法が成立する際、衆診両院で、審査にあたっては主治医の意見を尊重すべきとする内容の附帯決議がなされています。
(29)県・市当局からこの決議について聞かされたことがありますか。
ア ある
イ ない
(30)審査に際して、主治医から意見聴取などを行ったことがありますか。
ア ある
イ ない
ウ 判らない
回答 12
12
(29)
(30)主治医の診断は尊重しています。                     `
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水俣認定審査会への公開質問状と回答 認定審査 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

質問 7
7 公害健康被害補償法では、審査委員は「医学・法律・その他公害に係る健康被害の補償に関し学識経験を有する者」とされています。
しかし、現在の審査会は医師のみで構成されています。
(16)この点をどう思いますか。
ア 現在のままで良い
イ 医師以外の学識経験者も人れた方が良い
ウ その他(              )
回答 7
7
(16) 現在、純粋な医学的判断を行っていますので、医師のみによる構成がよいと思います。
質問 8
8 国の水俣病の認定基準(判断条件)は、昭和52年7月の環境庁環境保健部長通知、昭和53年7月の環境庁事務次官通知などで示されています。
(17) これらの基準は、現在の水俣病研究の成果を十分反映していると思いますか。
ア 思  う
イ 思わない→具体的にはどのような点ですか
(18) これらの基準によって、原則的に一人の患者ももれなく認定されると思いますか。
ア 思  う
イ 思わない
回答 8
8
(17)

(18)どんな病気でも一人も漏れなく診断できる基準というものはありません。
質問 9
9 現在の認定制度では、制度的に、審査会の委員は申請患者を直接に検診(診察)せず、別の検診医が行うようになっています。しかし、行政当局の説明では、審査会の委員の中には、直接に検診(診察)している方もいるそうです。
(19) あなた自身は検診(診察)したことがありますか。
ア な  い
イ あ  る→申請患者の(    )割位
(21)あなたが検診(診察)している、又はしていないのは、どのような考えからですか。
ア 制度的に診る必要がない
イ 検診医も兼ねている
ウ 自分の専門領域で問題のある、診察しなければならない患者がいない
エ 時間がない
オ 直接診ていない患者については判断(診断)できないと考えるのでできるだけ診ている
カ その他(                        )
回答 9
9
(19)(20)判断困難な例については、診察することにしています。
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迷えるキリスト者=椿氏を批判する③ 公開質問状 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

く被害者の救済か、切捨てか 迷えるキリスト者=椿氏を批判するく>③
                                                 高  見     優
(1)は じ め に・・・・・①
(2)患者サイドに立つ (1965年~1973年)・・・・①
(3)立場をかえる(1973年~)・・・・②
(4)椿氏の現在の立場と考え方
  さて、今回の「回答」に椿氏が添えた三編の論文を検対してみよう。いずれもキリスト教関係の出版社の雑誌等に掲載されたものである。
 (A)「イエスの癒し」について(「婦人の友」82年.7号 婦人の友社)
   サブタイトル「意志と信仰のはたらき」と題するこの文章は、聖書のヨハネ・福音書第5章
5~9の「ベテスダの池の物語」の紹介からはじまる。
池の水が吹き出す(間けつ泉)時に、一番最初に池に入った人は病いが治るという迷信を信じて多くの患者が池のまわりに群がっていた。そこに38年もの間、一番乗りを果そうと横たわっていた人に、イエスが、運にまかせるような弱さを捨てて「起きて自分の力で歩きなさい」と言うと、すぐに病いが治ったという物語である。椿氏は、これをうけて「医学は科学であるが医療は単なる科学ではない。医療従事者の信仰に結びつけられた愛の力と患者の信仰一意志が本人を救う」という趣旨のことを述べている。そして、最後に一言つけ加えている。ここでは、これが一番重要だ。
 「-ベテスダの池は今日の社会の一面を象徴していないだろうか。現代の社会には、よりよい地位、より多くの富を得るための池があり争ってその池に入ることを望むという傾向はないだろうか。池に入ることよりも………、(イエスの癒しの中の)あの人の体験をもう一度かみしめたい、と思うのである。」

 (B)「寿命と医学」対談(椿氏と住谷馨氏)(「明日の友」82年冬号 婦人の友社)
 「医学によって治らない病人にも医療はほどこせるという信念が大切だ」(椿氏、以下同じ)「恥しいことだが大学にいる頃は深く考えなかったけれど、在宅医療が必要だと知った」「都立神経病院では地域の主治医・看護婦・ケースワーカーなどと在宅ケアに力をいれている」「今の医療制度では不十分」「神経の病気は500種くらいあり、治らない病気(難病)もある」「私は神様から頂いた生命を大切にしたい」
 ここでは治療に専念する氏の姿があり、医療制度についても言及する。

(C)「生命の尊厳」をめぐって(「教会婦人」81年10月、全国教会婦人会連合)
 「医師はあくまで患者の生命を守る」「人間の生命の尊厳は平等である」「医者はいかに努力しても患者や家族の苦しみを負うことはできない」「(医療における)精神的努力には限りがない」「「心の癒し』を実践したい」「広島原爆で死んでいく人を治療した経験がある」「公害反対の弁護士が自動車にのっていたり……」「タバコも公害」
 「私は公害をなくすためには、一人一人がエゴを捨て、他人のためを考えることから始めなければならないと思う。」としめくくっている。
 椿氏は自らの立場、考え方の弁明をしようとしている。
 たぶん、椿氏は「心優しき善良」な人物なのだろう。東京に移ってからも氏は、たまに新潟に来たとき、新潟海岸のぐみの木が年々減っていくことを知り、新潟日報に投書して「ぐみの木を守ってほしい」と訴えたことがある。3編の文章を見ても神経病院の患者を思う気持はそこいらのふつうの医師以上のものがある。科学者でありかつキリスト者として愛をもってそこの患者に接しようという姿勢は充分うかがい知れるし、そこの患者にも喜ばれているようだ。
 しかし、「地獄への道は善意に満ちている」という先人の言葉もある。

 新潟の水俣病患者から聞く椿医師の評判は実にこれと全く正反対なのだ。ある患者は、椿氏から「そんなに認定されたいのかー」と、金目当ての詐病あつかいにされたと、くやしそうに語る。漁協の役員のある患者は「魚を食べたといってもいくらでもないでしよう」と言われたという。新潟では椿氏は患者からヤブ医者呼ばわりまでされている。
 一方、椿氏は、このような新潟水俣病患者を先の「イエスの癒し」の最後につけ加えたように争ってベテズダの池に入ろうとしているといって非難しているのだ。
 一体どちらが椿氏の本来の姿なのだろうか。

 10年前、県議会(1974年 前述)で椿氏は、「こんなに苦しい仕事をやるのはいやだ」と述べ、認定審査のやり方を変更した心境についても語っている。それによると、公害患者を何とか救済しようと思った氏は、どんどん症状をひろっていき、他の病気であるということが明らかにならない限り、汚染魚を食べた人で一定の症状があらわれておれば積極的に水俣病だと公害認定していたようだ。ところか、中毒患者のピラミットの図のすそ野の方にまで下がっていったとき従来の水銀中毒の症候群からはかなり違ったものになってきた。椿氏は「水俣病以外の神経の患者を診ているが仮りに阿賀野川の魚を食べていたら我々はどう診断するだろうか。逆に阿賀野川の魚を食べている人について、もし食べていなかったら……」(県議会発言、以下同じ)と不安になり「これは無限に拡げていくと日本人全部が水俣病といっても不可能じゃない-」などと考えはじめたらしい。つまり、従来の医学診断学の常識では考えにくい状況に入っていったとき、学界内の批判を恐れ出したのだ。その頃、第3水俣病事件の騒ぎで彼は”日本の混乱を何とかしなければ‥….”と秩序がこわれる危機意識をもったのではないかと私は思う。それは、体制側の人間特有のものであるが、先の武谷氏の「医者の特権意識」という批判のとおりだろう。

 患者さんや我々だって、何も日本人全部水俣病だなどとは一言も言っていない。阿賀野川流域や水俣、有明などのわずか(といっても大勢だが)数万の人間の中で症状を訴え、他の原因が明確でないものに限って救済せよと主張しているだけだ。
 椿氏は、この時点で自ら政治的判断をして「純医学」に舞い戻ってしまった。氏は、政治的圧力はなかったと云っているが、その圧力をかけるまでもなく、氏自らが悩んで世の常識=秩序にすり寄っていったのだ。
 又、氏の思想的限界であると考えられるが、公害問題を個人レベルの意識変革の問題のみに帰してしまっている。その思想上の弱点は、氏の科学に対する考え方にも現われている。即ち、数十ミリグラムで中毒になるという猛毒のメチル水銀を、総水銀で5トンも阿賀野川にたれ流したケースは史上なかったし、全く常識を超える量であるのだ。
                             
 この事実がすでに常識をこえており、椿氏が恐れる発症率の異常な高さと不定型の症状の患者群の多さは、ある意味では、科学的に充分ありうると私たちは考えている。これから証明していかなければならないことだ。ある時点からは事実を前にしたとき、従来の権威と常識にたよる余り科学的方法で問題に対処することを怠ったり、現実から逃避してしまっているのである。そしてその部分を埋めるものとしてキリストが必要になってきているように思われる。

(5)カムバック ミスター・ツバキ
  公害問題は、椿氏がいうように個人の意識変革というレベル問題ではない。戦後、最大の公害事件どいわれる水俣病事件は、現在の生産様式と科学技術のあり方から必然的に生み出された結果なのだ。
 その原因への切りこみがなく、椿氏らが果たしている客観的役割に対して改められない限り公害は一層拡大・深化していくに違いない。現に新潟水俣病の加害企業、昭電は「二度と公害はおこさない」と約束したにも拘らず、塩尻で川崎でそして海外でも公害を発生しつづけているではないか。
 田尻宗昭氏は、「公害は、今では排水口や煙突からのタレ流しといった外科的症状からより構造的な全身症状へとすそ野を広げつつある」「その象徴は大規模開発で甚大な環境破壊をもたらすだけでなく、激しい対立を引きおこし、地域社会を根底から揺さぶっている。」「札束がとびかい、ぬぐい難い人心の荒廃が生まれている。」と述べている。(「海と乱開発」岩波書店)そのとおりだと思う。

 椿氏は、この現状をどう考えているのか。氏が専門家として社会に果すべき責任は、専門家としての力を被害者の救済のために尽すことであって、決して加害者のために力を行使することはない。
 氏の医療に対する考え方を新潟の地でも実践すべきである。審査会で医師として行動しているというのなら、主治医に対しても患者に対しても治療をほどこし、方針を与え、そのことを行政が怠っているなら積極的に提言すべきであり決して棄却患者を放置しておく現状を許してはおけないはずだ。
 もちろん一人の医者に全ての責任を押しつけるわけにはいかない。しかし、椿氏はその実績と社会的地位・立場からそれだけの力があり、今でも新潟水俣病の全被害者と家族は氏に戻ってきてほしいと心から望んでいるのである。
                                               1983.4.20
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