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やりなおす戦後史ー2015年 その③バターン半島に取り残した兵士約7万 [明治以後・国内]

やりなおす戦後史  著者 蔭山克秀 /かげやま・かつひで 
出版年 2015.7  出版者 ダイヤモンド社  ページ数 311p 大きさ 19cm
ISBN 978-4-478-06565-5
新潟市立図書館収蔵  NDC分類(9版) 210.76

著者紹介 蔭山克秀 年齢不明 愛媛県出身。代々木ゼミナ-ルで圧倒的な人気な民科№.1講師。
抜粋して掲載したWeb https://diamond.jp/articles/-/75746  より
マッカーサーは、太平洋戦争時、連合国の南西太平洋地域総司令官でフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の兵士を残してオーストラリアに“逃亡”した。バターン半島に取り残された兵士たちは、収容所に移動する際にマラリアや疲労で次々と死に、到着時には五万人余りにまで減っていた(「バターン死の行軍」)。
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《内はニジヤ挿入 
《大日本帝国陸軍は1941年12月10日にルソン島、22日にる第14軍主力の第16師団と第48師団の2個師団約4万が上陸。マッカーサー大将は、「日本軍の陸軍、海軍機あわせて751機が飛来し、彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下にあった」「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と実際とは異なる妄想報告をしている。
バターン半島に、我先に逃げ出した10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。1月6日にバターン半島に撤退を完了した。
 ルーズベルト米大統領は「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じることは、白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」としてマッカーサー大将に脱出≒米比軍の大日本帝国陸軍に降伏を命じなかった。
 1941年12月22日から1942年1月14日に、開戦2週間後にワシントンD.C.で米国ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相のアルカディア会談が開かれた。席上、合国統合戦略計画「ABC-1」として、大西洋、太平洋の二正面で戦うが大西洋側への攻勢を優先すると合意した。投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められた。ヨーロッパを最初の戦略目標とし、最初の打倒目標はナチス・ドイツであるとした。この頃にナチス・ドイツに対抗しウラニウム爆弾・原爆の製造を、アメリカは始めた。
Sir_Winston_Churchill_-_.jpg 南西太平洋戦域で展開する対日本戦は、ABDA司令部(American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, ABDACOM 、米英蘭豪司令部)の設置し対処する。この海域・戦域には、大日本帝国海軍に対抗できる戦力が残存してなかったから、司令部の役割は「時間稼ぎ」だとルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は理解していた。当時の参謀本部戦争計画局次長・アイゼンハワー(後の34代953年1月20日 - 1961年1月20日米大統領)は「上層部がアジアで日本軍の進撃を食い止めることを軽視している。」と評している。、
 11月以降に作られた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、全て日本軍に接収された。中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所から米が米比全軍の4年分の食糧にあたる量が日本軍に渡った。これで日本軍4万人の兵食は手当てできた。
 バターン半島の食糧など備蓄は、4万の兵士半年間分が消費量が蓄積されていたが、兵員。市民・文民ら10万人以上が立て籠もるのだから、米比軍は日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れた。約一月後、42年には収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった
日本軍の進撃で直接の脅威を受けることとなった白人国家オーストラリアが、北アフリカ戦線に送っている3個師団の代わりに、アメリカがオーストラリアの防衛を支援して、担って欲しいとの要請があり、その司令官として英国首相チャーチルがマッカーサーを指名した。それに基づき、名目に1942年2月21日、ルーズベルトはチャーチルからの求めや、マーシャルら陸軍の説得を受け入れマッカーサーにオーストラリアへ脱出するよう命じた。》
続く

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