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「事大主義」を生んだ朝鮮との外交関係① [ユーラシア・東]

「事大主義」=日本・朝鮮・沖縄の「自虐と侮蔑」
 著 室井 康成[ムロイこうせい]/中央公論新社

シリーズ名1 中公新書
シリーズ番号1 2535
新潟市図書館収蔵 中央・ホンポート館 1階39番書架 NDC分類(9版) 210.6


事大は、【史記】など中国古典にみられる漢語。大国に従う「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが本来の意味。
principleや~ismを福地源一郎(桜痴・1841-1906)が明治期に 「原理」「原則」「~主義」を訳語として用いた。

事大と主義を組み合わせて「事大主義」を造語したのは、福沢諭吉。初出が福沢が主宰していた新聞「時事新報」1884明治17年12月15日号の論説「朝鮮事変」。 だから朝鮮との関係を表した言葉・造語だから、当時のあり様が問題だが、この本を、手掛かりにして明治維新直後期の関係を検討してみよう。タグに維新・朝鮮。

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貝と羊の中国人ー新潮新書 169 [ユーラシア・東]

imagesBB.jpg貝と羊の中国人 
著者  加藤徹   
出版年 2006.6
出版者 新潮社  新潮新書  169
ページ数 255p
ISBN 4-10-610169-6
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館
内容紹介
財、貨、賭、買...。義、美、善、養...。貝のつく漢字と羊のつく漢字から、中国人の深層が垣間見える。多神教的で有形の財貨を好んだ殷人の貝の文化。一神教的で無形の主義を重んじた周人の羊の文化。「ホンネ」と「タテマエ」を巧みに使い分ける中国人の祖型は、三千年前の殷周革命にあった。漢字、語法、流民、人口、英雄、領土、国名など、あらゆる角度から、斬新かつ大胆な切り口で、中国と中国人の本質に迫る。
著者紹介
1963(昭和38)年東京都生まれ。広島大学大学院総合科学研究科助教授。東京大学文学部中国語中国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。90~91年、中国政府奨学金高級進修生として、北京大学中文係に留学。2002年、『京劇 「政治の国」の俳優群像』で、第24回サントリー学芸賞芸術・文学部門を受賞。その他の著書に『漢文力』『西太后』『漢文の素養』など。
書評
「中国史は、一言でいえば、士大夫という階級が文明を乗っ取る過程の歴史であった」(123ページ)という記述がこの本のエッセンスを凝縮している。
著者によれば、士大夫という中高級官僚群が権力も富も文化もすべてを支配してしまう体制がこの国のここ2000年ぐらいの間に次第に出来上がってきた。この階級は科挙という制度を経れば、基本的には誰でもなることができる立場であったため、だれもがこの地位を目指し、権力と富と文化の独占を望み、能力と力のある者がそれを果たした。
したがって時代は変わり、王朝は代わり、地域は変わっても、士大夫がすべてを握っているという状況は何も変わっていない。そのため中国はいつになっても、権力の象徴的な皇帝と、世の中を牛耳る士大夫、その他大勢という構造から抜け出ることができない。
現在には、著者は触れていない

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モンゴルの文字と文化の危機--宮 紀子 みやノリコ  京都大学人文科学研究所助教 [ユーラシア・東]

 二〇二〇年、世界がコロナ禍対策に気をとられている最中、中国政府は、内モンゴル自治区の全学校に対し、標準中国語による教育を義務化した。幼少期から母語と全く異なる言語体系・表意文字での学習と思考を強制される。その不利益・弊害についての懸念もさることながら、アイデンティテぃや文化の根幹をなす言語と八百年以上の歴史をもつ言語の危機に、ひとびとは反発し、怒りの声をあげている。かつてソビエト連邦も外モンゴルや中央アジアにおいて、こ(パクパ字よりも徹底して)一律に表音のキリル字を使用させたが、かれらの言語までは取り上げていない。
 現在、中国が推進する「一帯一路」政策は、マルコ・ボーロの『百万の書』が描くクビライ時代の再現である。しかしその「戦狼外交」、新疆ウイグル自治区や香港における弾圧はクビライの訓えとは正友対に向っている。
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大モンゴル国の宗主として空前絶後の版図を擁し、富と繁栄をもたらしたクビライ

クビライがジャルリク聖旨をのたまうに「汝ら、我が子係たちよ。久しき後も国民くにたみ‐を束ねたければ、よいか(=我は言おうぞ)かれらの身を捉えることに拘らずかれらの心を掴ツカむなら、かれらの心を掴んでしまえば、かれらの体は何処に営めるも<のか」。要するに、恒久的支配には肉体的拘束ではなく心服させることが肝心、との訓えである。
そもそもモンゴルの王族たちは、チンギス・カンのイェケジャサク大法令を遵守し、特定の宗教・教団に偏重したり、改宗を強制するようなことはしなかった。可能なかぎり、現地の習俗や文化を尊重した。
クビライは、パクハ字を創製して漢語をはじめあらゆる言語を表記できるようにしたが、大モンゴル国の一休性を象徴するアイコンであって(装飾性が勝り速記に不便)、じっさいの文書はモンゴル語の正本のほかに当該地の文字・言語に翻訳した副本を附していた。官吏とその子弟の以外に、モンゴル語学習を奨励することはなかった。

何より、衣食住の確保すなわち経済政策こそが治安維持の鍵だとわかっていた。

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毛沢東論―➁--終章-1宗教としてのマルクス主義、教祖としての毛沢東 覚え書 [ユーラシア・東]

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毛沢東論―真理は天から降ってくる

著者名 中兼 和津次 [ナカガネかつじ]  

出版者 名古屋大学出版会

出版年 2021.4

終章-1宗教としてのマルクス主義、教祖としての毛沢東 覚え書

ハンナ・アーレントは、ポルシェヴィズムを世俗的宗教として、また「真の信仰の代替物として、すなわち世俗化された社会から、生じた大きな現代的異教として」捉えた。「「世俗宗教」の出現自体が人間の宗教的欲求の不可避性の表現として、そして伝統的宗教に対する最高の政治的警告」つまり、マルクスか宗教を一種のイデオロギーとして見たのに着目し、両者の関係を逆転させ、イデオロギーを宗教として位置づけたのである。そうすればマルクス主義、そしてそこから派生したレ-ニン主義や毛沢東主義を、科学ではなく「宗教」だと捉えることができ、社会主義革命や建国後の運動あるいは歴史的事件をうまく説明できそう
である。
そこで、マルクスーレーニン主義とか毛沢東思想などといわず、思い切ってマルクス教やレーニン教ないしマルクス教レーニン派、または毛沢東教あるいはマルクス教毛沢東派と読み替えたらどうだろうか。そうすると、マルクスやレーニン、毛の言説や理論は「神」の言葉、いわば「聖書」となり、決して疑ってはならない、絶対的真理となる。もし神の言葉を疑ったり、「修正」したりしようものなら、レーニンがカウツキーを罵ったように、「背教者」というレッテルを貼られ、場合によっては政治裁判に掛けられ、処刑されかねない。かつてのソ連共産党員とは、マルクス教レーニン派という宗教団体、教団の信徒を指導、あるいは支配する神父や牧師、司祭に当たる。同様に中国共産党員たるものは、マルクス教毛沢東派なる教団の信徒たちにとってこの教団の神父や牧師、司祭に相当する。マルクス教レーニン派の大聖堂の神父にスターリンという独裁者がいたが、彼か提唱した社会主義下における階級闘争激化論という新しい教義に毛は強く彫響されていた。
 この教団にはキリスト教と同様にさまざまな儀式かある。各地の教会にはレーニンやスターリン、あるいは毛沢東という教祖の肖像が飾られ、入信した信者たちは神父ないしは牧師(党書記)から「洗礼」の儀式を受ける。そのさい信者は「(神の国)共産主義実現のために奮闘努力します」と恭しく誓う。彼らの中で将来を嘱望された者は、「党校」なる神学校に行ってより深く教義を学び、教祖を通して神に絶対的な帰依を捧げる。
この教団の、一般の信徒は教祖を絶対疑わない。キリスト教徒が神を疑うだろうか?イスラム教徒はアラーを信じないだろうか?自分たちを救済してくれたのは教祖だと固く信じているか、信じ込まされている。毛沢東時代、真理は天から降つてきた。神、またはその代理である教祖たる毛沢東は、唯一の真理を語る絶対的存在であり、それを疑うのは「不敬」となる。仮に厳しい生活に追いやられても、時には飢餓の危機に見舞われても、信徒たちは教義や教祖を信じ続ける。時には地域の教会の悪辣な神父から搾取されたり虐待されたりしても、「悪いのは神父であって教祖様ではない」とか、「教祖様は神父の悪行をよく知らないのではないか」と言って、教祖に直訴したりする。彼らは心の中の神と教祖を慕い続ける。そして集会では「教祖様のご長寿をお祈り申し上げます【万寿無疆 まんじゅむきょう】」と祈りを捧げ、革命歌という『賛美歌』を歌ったりする。

大躍進とその後の空前絶後の大飢餓・飢餓が起れば、あるいは文化大革命で人々か殺し合い、すさまじい規模の犠牲者が発生すれば、普通の国では革命や大反乱が起き、政権は瓦解するはずである。・・・しかし、そうした劇的な変化か毛沢東時代の中国で起きなかったのはなぜだろうか?・・・餓死者数千万人を出しても中国は崩壊せず、共産党政権は微動だにせず、最高責任者毛沢東も失脚することはなかった。なぜだろうか?社会の隅々まで厳重な監視網が敷かれ、少しでも反党・反政府、あるいは反毛の動きを見せれば密告され摘発されてしまうからだろうか?それもあるかもしれない。しかし、大飢饉が起こり、社会か崩壊しそうなときには、密告網や警察網も崩れているのが普通である。・・・
いろいろ考えてみて、大躍進期に中国が崩壊しなかった要因として、最も可能性が高いのは次の二点ではなかろうか。第一に、そうした経済の混乱期に庶民は積極的に低抗するのではなく、消極的に、制度の裏をかくようなさまざまな行動、たとえばヤミ農地の開墾や食糧栽培とか、強制買付け食糧の隠匿とかいった、「反行為」を行い、それによって、多くの農民がある程度まで生存水準を維持できたことである。しかしこの要因は、餓死者が比較的少なかった地域における政権の相対的安定性を説明できても、飢餓が危機的状況にまで達していた地域について説明することは雖しい。村で半数以上の人が餓死し、人肉食(カニバリズム)さえ横行するといった悲惨な地域では「反行為」の手段さえ尽きてしまったはずである。
 第二の、それ以上に強力な政権[安定化]要因とは、上述したある種の[宗教的]要因である。
四世紀の西欧でペスト(黒死病)が大流行し、人口が激減した時代かあった。・・・これが直ちに政治的激変をもたらしたという話は聞かない。多くの人々が病気になったために王権を倒す体力も気力もなくなったためだろうか?・・より重要な原因は中世キリスト教による精神的支配の強さだったように思われる。多くの民は死にゆく家族や仲間を見守りながら、必死になって祈りを捧げた。当時ヨーロッパの庶民にとって、キリスト教、口ーマ法王、そして教会(司祭)は絶対的存在だった。人々を支配し政権を担う王、ないしは領主は、こうした宗教的権威に従い、かつ教会を庇護していたわけであるから、王や領主に歯向かうことは教会に、ひいてはローマ法王に抗うことになったはずである。
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これを毛沢東時代の中国に移し替えてみたらこうなるだろう。つまり、大躍進期開始後のあの大危機において、毛沢東教徒たちは教祖の毛主席を信じ、あるいはもう少し正確にいえば、毛があの大惨事の責任者だとは信じず、考えようともせず、悪いのは「地元の教会」の司祭や神父・牧師に当たる人民公社や県の幹部連中だと見なし、ひたすら消極的抵抗に走っていったのであろう。文革前の17年間、教科書、メディア、会議などあらゆる形式でみなか毎日繰り返し繰り返し公式イデオロギーを・・・(中略)・・植えつけられ・・・イデオロギーは社会全体の集団意識となった。ハンナ・アーレントが言ったようにイデオロギーが強固な宗教的教義になったといえる。
文革が始まる前に・・続ける



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毛沢東論―真理は天から降ってくる [ユーラシア・東]

方6L.jpg毛沢東論―真理は天から降ってくる
著者名 中兼 和津次 [ナカガネかつじ]  
出版者 名古屋大学出版会
出版年 2021.4
ページ数 6,407,22p
大きさ 20cm
ISBN 978-4-8158-1023-8
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート /309.3/ナカ
内容説明
大躍進政策や文化大革命によって大量の犠牲者を出しながら、現在なお大陸で英雄視される稀代の指導者。「秦の始皇帝+マルクス」とも言われる、その思想と行動を冷静かつ大胆に分析。中国経済研究をリードしてきた碩学が、現代中国の核心に迫る。
「はじめに」全文・・・https://allreviews.jp/review/5470
毛沢東(もう たくとう、英語: Mao Zedong、Mao Tse-Tung、マオ・ツォードン)
目次
第1章 毛沢東の哲学と思想―「矛盾論」と「実践論」の落とし穴
第2章 毛沢東と魯迅―もし魯迅が革命後も中国にいたら?
第3章 階級闘争論と大衆路線―毛沢東の「マルクス主義」
第4章 反右派闘争の展開と結末
第5章 大躍進と大飢餓
第6章 彭徳懐の悲劇―盧山会議とその結末
第7章 毛沢東の政治経済学―「矛盾の経済学」を解剖する
第8章 文化大革命と毛沢東
第9章 毛沢東と周恩来
第10章 毛沢東をめぐる女性たち
終章 毛沢東をどう評価すべきか
著者等紹介
中兼和津次[ナカガネかつじ]
1942年北海道に生まれる。1964年東京大学教養学部卒業。アジア経済研究所調査研究部研究員、一橋大学経済学部教授、東京大学大学院経済学研究科教授、青山学院大学国際政治経済学部教授等を経て、東京大学名誉教授(経済学博士)。主著『中国経済発展論』(有斐閣、1999年、アジア太平洋賞大賞・国際開発研究大来賞)、『中国経済論』(東京大学出版会、1992年、大平正芳記念賞)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

1023-4b.jpgはじめに・・・001
第1章 毛沢東の哲学と思想
――「矛盾論」と「実践論」の落とし穴・・・008
1 「矛盾論」と「実践論」の構造・・・010
2 毛沢東哲学の実用性・・・015
3 毛沢東の哲学と思想に対する評価・・・017
4 毛沢東哲学の落とし穴――私の解釈・・・023
第2章 毛沢東と魯迅
――もし魯迅が革命後も中国にいたら?・・・037
1 梁漱溟に激怒する毛沢東・・・040
2 胡風事件・・・051
3 魯迅と毛沢東・・・058

魯迅(ろ じん、ルー・シュン)


第3章 階級闘争論と大衆路線
――毛沢東の「マルクス主義」・・・067
1 革命闘争と階級――毛沢東初期階級概念の特色・・・069
2 革命後の階級概念の変化・・・079
3 土地改革と階級区分・・・086
4 大衆、人民、大衆路線・・・095
5 階級闘争と暴力・・・105
第4章 反右派闘争の展開と結末・・・111
1 反右派闘争前史――百花斉放・百家争鳴・・・112
2 闘争の開始・・・120
3 闘争の結末・・・131
4 反右派闘争をどう見るか・・・135
第5章 大躍進と大飢餓・・・144
1 大躍進政策の誕生・・・145
2 人民公社政策の展開・・・158
3 大飢饉・飢餓――犠牲者の数・・・163
4 大飢饉・飢餓――そのメカニズム・・・173
5 大躍進とは何だったのか・・・184
第6章 彭徳懐の悲劇
――廬山会議とその結末・・・188
1 大躍進政策の転換・・・189
2 廬山会議――彭徳懐の意見書・・・191
3 毛沢東の彭徳懐批判・・・198
4 彭徳懐の末路・・・207
5 彭徳懐の悲劇をどう見るか・・・214
彭徳懐(ほう とくかい、英語:Peng Dehuai、ポン・ドーファイ)
第7章 毛沢東の政治経済学
――「矛盾の経済学」を解剖する・・・217
1 毛沢東の政治経済学の特徴・・・218
2 毛沢東の経済目標・・・232
3 鄧小平の経済学・・・239
4 毛沢東「政治経済学」をどう評価するか・・・245
鄧小平(とう しょうへい、英語:Deng Xiaoping、トン・シャオピン、
第8章 文化大革命と毛沢東・・・251
1 七千人大会・・・252
2 社会主義教育運動・・・261
3 文革の発動と拡大――そのメカニズム・・・267
4 文革の悲劇――その規模と残虐さ・・・281
5 文革の評価――文革とは何だったのか・・・286
第9章 毛沢東と周恩来
1 建国前の毛・周関係
2 建国後の毛・周関係
3 周恩来をどう評価するか
周恩来(しゅう おんらい、英語:Zhou Enlai:チョウ・エンライ)
第10章 毛沢東をめぐる女性たち・・・322
1 楊開慧と賀子珍・・・323
 楊開慧(よう かいけい)
 賀子珍(が しちん)
2 江青・・・328
 江青(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiāng Qīng)
3 張玉鳳・・・334
 張玉鳳 Zhang Yufeng
4 毛沢東の情事・・・337
5 毛沢東の女性観・・・342
終 章 毛沢東をどう評価すべきか・・・348
1 宗教としてのマルクス主義、教祖としての毛沢東・・・349
2 毛沢東が現代中国に遺したもの・・・362
3 毛沢東の性格について・・・368
結びに代えて――毛沢東をどう評価するか・・・373
あとがき
参考文献
図表一覧
事項索引
人名索引


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韓国の開国―雲揚号(うんよう)事件をめぐってー申國柱 1957年 [ユーラシア・東]



覚え書  より

一九世紀の前半から後半にかけて、欧米資本主義諸国は、古代からその文明をほこった東方の諸国をつぎつぎに征服し、さらに極東にまで侵略の手を延ばし、中国と日本の閉鎖された門扉を叩いて、開国を強要した。しかし、このような世界分割のための列強間の闘争のうちで、韓国は最後まで取残された鎖壌国として閉じこもったのである。

 
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なぜ韓国の開国が最後まで取残されたのだろうか。

その理由について、ここに若干指摘しておきたい。まず、韓国の位置が地形上アジア大陸に接し、日本、琉球列島を防波堤となし、太平洋から奥深く入りこんでいる関係から、当時欧米諸国が極東方面に交通を求めて来たのは、陸路よりも専ら海路によったので、まず中国が、ついで日本が着目せられた。

すなわち、当時欧米諸国から海路極東方面に向う船舶は、いずれも中国の南部の広東を中心点とし、これから上海、天津へと北上し、日本では長崎がその中心点をなしていた。 

しかるに韓国の位置は、この航路から見れば、遙か北方に入り込んでおり、従って朝鮮海峡を経て、日本海に向うか、また黄海を北航して、華北・南満州方面に向う航路が開けないかぎり、韓国沿岸を訪れる機会は全くなく、かつこの方面の航路は、経済的価値も少なかったために、韓国の開放は長い間捨てて顧みられなかった。 

また当時韓国官人政府の対外政策は、「事大」「交隣」に局限され、その他の外国人との交通は固く禁じられ、韓国人は、中国以外の諸国に対して、何らの認識もなく、よって国際的活眼を全然具備しなかった。中国が欧米諸国と開国した以後も、韓国は独自の立場で欧州諸国と交渉を非常に恐れ、中国を通じて、西洋の自然科学やキリスト教などをとりいれた。
ところが、一九世紀の中葉にいたると、天津、牛荘、芝果・などが外国貿易港として開かれ、華南から華北にいたる航海が頻繁を加えると、韓国西海岸が欧米諸国の注目をあつめ、ついで欧米諸国の船舶が韓国人の前に直接姿を現し、朝野に大きな不安を与えた。南からはイギリスとフランスが北上し、北のシベリヤからはロシアが南下し、東からはアメリカが鎖国の夢を貧る韓国へ襲ってきた。すなわち、西紀一八三一年、イギリスの商船が忠清道洪城郡古代島付近に来泊し、公然と交易を求めたのを皮切りに、一八四五年の夏にはイギリスの軍艦サマラング号(Salnafalg)が、湖南興陽より済州島沿海を測量し、通商を求めてきた。
一八四六年にはフランスの軍艦が忠清道の洪州沖に現れ、一八六五年にはロシア船隊が威鏡北道慶興の沖に来泊し、ことに一八六六年にはフランス艦隊が首都に近い江華島を一時占領した。また同年、アメリカの商船シャーマン号(General.Sherman)が大同江に来航して通商を求めが、韓国官民のために焼打に遭い、全船員が殺害された。この事件の報復のため、一八七一年にはアメリカ艦隊が江華島を占領したが、韓国軍によつて撃退された。かくの如くして欧米諸国の艦船は、つぎつぎと韓国水域に出没したので、韓国官人政府は、いっそう不安におそわれ、朝野の動揺を深めた。
このような情勢に直面した韓国官人政府は、宗主国の中国が欧米諸国の侵略に苦しんでいる状況を知っていたので、なおさら欧米諸国の開港要求に危険を感じ、その要求に応じなかったのである。
韓国官人政府は、開国を拒否し、鎖国を守るために邊防を固め、さらに西洋の宗教である天主教に対して、正祖王以来の禁教政策を実行し、その信者教徒に対して大弾圧を下し、一八六六年には約三万人の信徒を処刑した。
またアメリカ商船が大同江を来航して通商を求めたときには、それを焼き払い、フランスやアメリカの艦隊の江華島占領に対しては、強く抗戦*した。そしてこの韓国の抗戦が成功し、外国軍隊が江華島から退去すると、韓国の排外政策は一層硬化し、「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国」という激烈な文字を刻した一大碑*を京城を中心に八道の全国の市邑に建てることになった。
 【 * 1866年10月、丙寅洋擾(へいいんようじょう、병인양요、ピョンイニャンヨ、Byeong-in yangyo);洋夷侵犯 (西洋諸国が侵攻し). 非戦則和 (戦わず和を結ぶなら). 主和売国 (それは国を売ることだ)】
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これに加えて、欧米諸国は、韓国にまで積極的に手を伸す余裕がなかったのである。
 一九世紀の中葉頃、列強の先頭に立ってアジアを侵略していたイギリスは、インドの経営と中国侵略に余念がなかった。
またロシアもシベリヤや沿海州の開拓に忙しく、フランスは華南や安南の侵入に無中であった。またアメリカも南北戦争後の経営に追われ、韓国の抵抗を押し切るほどの強い態度がとれなかった。
 
このようにして欧米諸国は、国際的・国内的諸条件によって、たびたび韓国へ来航し、通商を求め、時には江華島を占領したが、それは韓国を武力的に占領して領有しようという意図ではなかった。
フランスの場合は、宣教師の殺害に対する報復であり、アメリカの場合も、アメリカ商船の焼払事件に対す報復であったと思われる。このような国際情勢のもとで、韓国の鎖国政策は拍車を加え、中国との関係だけを重じ、一切の欧米諸国との交通を排斥して、韓国は安逸を享有していたので、西洋人から東洋の「隠者の国」と称せられ、最後までその開国が取り残された。

しかしその鎖国政策も、一時は成功したかのようであったが、それは決して永くつづかなかった。日本はアメリカが日本に対して開国を迫ったときと同様な手段で、韓国の鎖国を破るために第一歩を向けたからである。
一八五三年ペリー提督が引率したアメリカ艦隊によって、韓国よりもはやく門戸を開いた日本は、そののち、明治維新の革命を終え、近代資本主義文明を取入れ、欧米諸国にならって国内制度の改革を断行し、東洋における唯一の近代国家として発展の途上にあった。
欧米資本主義諸国の仲間入りをした日本は、国内の商品市場が極めて狭く、原料資源も貧弱であった。このような事情から、日本の資本家達は、その発展を計るために、はじめから軍事力に依拠して、海外から原料と食糧の供給を受け、その商品を販売する市場を海外に求めた。
 
一九世紀の後半には、資本主義列強の間に海外植民地略奪のための闘争が、激しく展開され、東洋侵略に乗り出した欧米諸国間の矛盾と葛藤を、日本資本主義は、うまく利用しながら、またその範をとりながら、いわゆる軍事的・封建的帝国主義として、富国強兵・侵略主義をその対外政策にうちだした。
 
一八七二年に、日本は中国の領土であった琉球諸島を征服し、一八七四年に台湾侵略にのりだした。それと同時に朝鮮もまた日本資本主義の直接の侵略対象になった。
 
元来、日本は韓国と三百年間友好関係を保ち、徳川幕府が鎖国したときにも、韓国とは国交を続けた。幕末の騒乱期には、国交が一時停止状態になったが、明治維新直後、日本は王政復古を知らせて、韓国に対して国交を求めて来たが、韓国政府は、日本の国書が慣例に違反しているというので、その要求を拒否した。その後、日本は幾度も外交使節を釜山に派遣して交渉したが、韓国政府は頑強にごれを拒否した。
 
そこで日本の国内には、不平武士群を主体として対韓強硬論が抬頭し、ついに明治六年には日本朝野はいわゆる征韓論でわきたった。すなわち、西郷を中心とした大陸派は征韓論を唱え、武力をもって断然戦端を開くべしと強調したが、欧米から帰国した岩倉具視を中心とした内治派は、まず内治を整え、国力の充実をはかったうえで、外に対抗しなければならないと主張し、対外強硬政策を時期尚早とし、内政改革の急務を提唱した。
 
かくして明治政府は、征韓の時期とその主導権の問題をめぐって、意見が分裂し、結局、征韓を主張する西郷一派が敗北し、征韓論は実行されずに終った (一八七三年 )。しかし西郷一派を抑えた政府も、征韓そのものに反対ではなく、政府の基礎を固め、国力の充実をはかってから実行しようとしたので、ただその時期と方法において反対しただけである。だから明治政府は、自己の方法と力で征韓を実行しようとし、その機会をねらっていたのである。
 
それからまもなくして、日本国内には大久保を首班とする政府に対して、左右両翼から批判する声がたかまったおり、大久保と同じ薩摩出身の雲揚号井上艦長は、征韓論意識に基づいて、韓国を挑発して江華島事件を起した。
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 日本軍艦 雲揚(うんよう)号/木造汽船:排水量245トン;定員:65名/が対馬、朝鮮の海路研究で韓国東南海岸航行の命を受け、1875明治8年5月10日に品川を出港し、 25日に釜山に到着し、韓国東南海岸航行の使命を約3か月かけ同年 (李太王十二年)・九月に終えた。さらに海軍省の命令で、韓国の西海岸へ示威運動の目的を以って行動中 (日本側は海路の測量を行わんとしたと称した )、淡水欠乏のために、江華島に近寄った。江華島は李氏朝鮮の首都、漢城府(かんじょうふ、ハンソンブ、現在のソウル)へ漢江を遡る河口にある島。半島部本土とは200~300mしか離れてない。その漢江口に雲揚本船を投じ、ボートにて江華島南の河口を溯り・さかのぼり・、良水を請求せんとした。韓国は外国軍艦が故無くして、領海に侵入したものとなし、江華島砲台より砲撃を加えた。雲揚号にはなんら損害はなかったが、艦砲で応戦、江華島砲台を破壊。さらに南の永宗島(えいそうとう/ヨンチョンド)に上陸占領し、城内の官衛や民家を焼払い、朝鮮人35人を殺害。「銅砲三六門を」鹵獲し、同年九月二八日に長崎へ帰還した事件である。
この雲揚号事件を契機として、日本の世論は、再びわきたち、先きの征韓・征台に強硬に反対した木戸が、態度を一変して対韓強硬を主張し、況や大久保も好機逸すべからずとして、開戦も辞せずの強硬方針を決し、六隻の艦隊をもって、黒田清隆、井上馨両全権を韓国へむかわせ、ついに一八七六年二月、武力的威嚇のもとに、いわゆる江華条規を結び、韓国の開国を議定せしめたのである。この条約の内容とその影響等は、次節に譲るが、日本はこの条約の締結に際して、幕末外交での被告としての日本の体験を、まさに逆に韓国に向って原告として強要し、これによって「東洋経略」宿志を実現する第一歩を踏み出した。

タグ:朝鮮半島
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アジアの海を渡る人々--総説(上田信)--p015-16世紀以前のアジア海域ーよりノート① [ユーラシア・東]


 人類の営為のなかで、海を渡るという行為ほど、人間的なものはない。陸上の生物として生まれたヒトが海を渡るには、未知なものに対する興味、海原にこぎ出す勇気、そして風向きや海流を読み解く知恵、航海の手段となる船舶を創る技術を持ち合わせていなければならない。
アジアの海では、先ずは、丸木舟から発達した、舷側から2本の腕木をつきだし、その先端に太い丸太などの浮力体を船体に平行に取りつけるアウトリガーで横安定を保つ帆船だったらしい。それは東南アジアの8~9世紀のものとみられる寺院の浮き彫り壁画に描かれている。
アウトリガー20111017_).jpg
紀元一世紀にギリシア語で著された『エリュトラー海案内記』には、すでに、絹の産地として中国(チン、秦に由来する)が登場する。

また、アジアの海はモンスーンが支配する海である。季節に応じて時に応じて風向きを変えるそのモンスーン風を読むことだできれば、インド洋を東西に、シナ海を南北に往復することか可能となる。
モンスーン02.jpg
おそらく人類史上最初にモンスーンを大航海に利用した人々は、紅海とインド亜大陸を経てマレー半島まで航行した西の航海者であったと想像される。
ペルシャ、アラブ系貿易船は、紀元前にはインド洋北西部に航跡を描き、7世紀後半には東南アジアを回って南中国に達した。
唐王朝時代の671年広州から仏法の聖地インドへ「求法」に海路出発、694 年に広州に海路帰着した時に乗ったのは波斯船つまりペルシアの船であった。
日本に戒律を伝え唐招提寺の開基となった鑑真は、5 回目の挫折の折・750年には《〔広州には〕バラモンの寺〔ヒンドゥー教寺院〕が三箇所もあり,どれもバラモン僧が住んでいる。その池には青い蓮があり,それは変わっていて,花も葉も根も茎も芳香を放つ。川の中に婆羅門 〔インド〕 ,波斯〔ペルシア〕 ,崑崙〔東南アジア〕 等の船舶が無数にあり,みな香薬・珍宝を山のように積載している。その船舶は深さが六,七丈もある。師子国〔スリランカ〕,大石国〔=大食=アラブ〕,骨唐国〔不詳〕,白蛮,赤蛮等が往来居住していて,その種類がたいへん多い。》と記している。1丈は3メートル余りなので6,7 丈だと20メートルになる。
彼らは釘を用いずに部材を縫合した三角帆のダウ船を操り、モンスーンに乗って中国を訪れた渡海者であった。
唐王朝の中国の特産品である絹織物(きぬおりもの)や陶磁器を西の世界へ運び、コショウなどの香料や南方の産物を運び込むことは大きい利益を生む、いい商売だった。
唐代には西から海を渡ってきた人々が、華南の広州に居留地を作り、集住していたことが知られている。
唐末に黄巣の軍勢が878年に広州を襲ったときに、アラブ人やペルシア人など10万人を超える西方の渡海者とその関係者が殺されたとされる。この件で、アラブ商人の中国貿易は大きい打撃を受け、マレイ半島周辺に根拠地を後退させることになった。そのあとを追うように、中国商船隊が海上貿易に乗り出した。
続く


ダウ船61dpOMuL.__.jpgダウ船(英語:dhow)
・アラブArab起源。 アラビア海(Arabian Sea)と紅海海域とインド洋(the Indian Ocean)を航行している。
・帆:船首と船尾を結ぶ線に沿って縦帆(じゅうはん、fore-and-aft sail)と呼ばる帆を張る。 三角型の三角帆の斜辺を長い桁/けた/で支え、帆の下端が帆柱より前に飛び出している。このため、帆の角度を少し調整するだけで、横風を利用して直進可能である。
・船体:縫合船と呼ばれる釘を用いず剛性を持たない柔軟な船体を持つ。船体の舷側板はココ椰子繊維などの紐で縫い合わされる。板に紐を通す穴をあける方法だけでなく,板を削るときに突起を残してこれに紐を懸けることもある。
板と板の間隙には、樹脂やタール、特定樹種の樹皮などの油脂を詰め埋める。タール状の粘土で防水したいわば袋状である。
積み荷や波によって柔軟に形を変え、応力を分散、耐波性も高い。
船体が柔軟なため、暗礁に衝突しても変形して力を逃し、大きく破損しない。また、破損、浸水しても縫い直す、張り替える、タールを塗り直す等で修理が容易である。構造上、小型船が中心。

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天下と天朝の中国史 [ユーラシア・東]

華(夏)と夷+四海+北狄+西戎+中華+東夷+南蛮.jpg天下と天朝の中国史

著者 檀上 寛 [ダンジョウひろし]
出版者 岩波書店
岩波新書 新赤版 番号 1615
 出版年 2016.8
ページ数 10,283,6p
ISBN 978-4-00-431615-2
新潟市立図書館収蔵 中央 新書 Map S/222.0/ダン/
内容紹介
古来より中国の歴代王朝は有徳の天子の朝廷「天朝」を演じることで、中華と夷狄とを序列・秩序づけ、「天下」を統治してきた。現代にまで息づいている、この中華帝国の行動原理の全貌を、中国史を通覧することで描きだす。
古来より中国の歴代王朝は有徳の天子の朝廷「天朝」を演じることで、中華と夷狄とを序列・秩序づけ、自らの領土たる「天下」を統治してきた。このような中華帝国の行動原理は、時代によってその内実を大きく変化させながらも、歴史を超えて現代にまで息づいている。中国史を通覧することでその全貌を描きだす雄大な試み。
目次
溥天の下、王土に非ざる莫し―春秋・戦国時代
天朝体制の仕組み―秦・漢
北の天下、南の天下―漢・魏晋南北朝1
天下と天下秩序―漢・魏晋南北朝2
中国の大天下と倭国の小天下―南朝・隋・唐
東アジアの天下システム―唐
天朝の行方―五代十国・宋・遼・金
天下一家の完成―元
天下一家から華夷一家へ―明
華夷変態と中外一家―清
中華民族の大家庭―近・現代
著者等紹介
檀上寛[ダンジョウひろし]
1950年生まれ。京都女子大学名誉教授。京都大学大学院博士課程修了。文学博士。専攻、中国近世史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
書評
天下と華夷で見る中国史
天の委任を受けて統治をおこなう有徳者が天子であり、それが収める領域が天下である。
文明化された中央である中華が狭い意味での天下、その周辺の夷狄まで含めたのが広い意味での天下である。
本書は、こうした天下や華夷の視点から中国史を一気に眺めようとする野心作である。
上記の天下などの発想は儒教に基づくものだが、世襲かつ絶対的な権威(=天そのもの)としての皇帝とは相異なる概念であった。
儒家の思想家はこの問題に対し、中華内部には皇帝号を、夷狄には天子号を用いるという方策を編み出す。また、世襲制を認めるべく、一切の私が消滅して公が貫徹する「天下一家」を、王朝を成立させて皇帝を頂点として皇帝の家として天下を平定することと言い換えていく(儒家以前にも劉邦に見られる)。
華夷の区分には、地域・民族的なものと文化・礼的なものとがある。もともとは地域民族的なものから来ている漢族中心的なものだが、特に五胡は徳の有無を強調した(ただし文化的に優位とされた漢民族への屈折した感情はなかなかぬぐえなかった)。前秦の苻堅の民族融和策や北魏孝文帝の華化(中国化)政策などは、そうしたコンプレックスの表れでもある。
周辺の夷狄は中華に冊封し、それによって広義の天下は拡大する。600年の倭から隋への文書では自らを天弟と名乗り、小野妹子の有名な「日出処の天子」では自らを天子と名乗っていたために隋からの不興を買った。これは東アジア諸国も自分を中心とした小天下、小中華を主張していて対外交渉における視点を忘れていたという面もあるという。
唐代においては周辺国は基本的に朝貢をし、朝貢国間の序列を互いに争う状況であった。
唐の後はしばらく混沌とし、宋と遼の関係でも、遼は一生懸命中国化を進めようとした。
元、明、清は抽象的国号であるとともに、ともに頭に「大」をつけて「大元」などと名乗るのはその国土の大きさ、民族的多様性を強調している。
元は明確に夷狄が作った国家だが、明は元を引き継いで作られているので、明は元の正当性を擁護するような立ち位置となる。具体的には特に基づく天下観が主として採用される。また華夷一家は言われるが、天下一家は(元を含む)夷狄を蔑む面があるので避けられた。
朱元璋の儒教を貫徹する恐怖政治、海禁を用いた朝貢体制の大拡張(鄭和の航海がピーク)という展開をしていく。元さえも屈服させるのに失敗した日本が朝貢してきたことに、永楽帝は大きく喜んだという。
その後の清朝は、弁髪などの譲れない選を除いては中国化を進めた。乾隆帝はモンゴルではハン、チベットでは仏教の転輪聖王、新疆ではイスラム保護者として振る舞うなどいくつもの顔を持って多元性を体現していたが、同時に中華を拡張して外の範囲の人々を無理やり一家に組み入れてしまうものでもあった。
ちなみに朝鮮では、最も野蛮とされていた女真が支配していることへの屈折した感情から、自らこそが明の正統な後継とする少中華の思想が強まった。清朝へのヨーロッパ進入時は、朝廷は「ヨーロッパ諸国に恩恵を与える」などと一生懸命の強弁をしたがその凋落ぶりは顕著であった。
孫文の中華民国は、当初は五族協和を出してもいたが、孫文自身の考えである漢民族中心的な側面は次第に強まり、モンゴルやチベットは清朝には従っても中華民国に従う義理などないので離脱しようとして(モンゴルは半分独立、チベットは第二次大戦後に弾圧された)。
固有名詞は少なめに押さえて、中国全体の動きを上手く押さえてくれている良書だと思う。

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アジアの海を渡る人々--p008-中華文明の海 [ユーラシア・東]

アジアの海を渡る人々--一六・一七世紀の渡海者 

上田信 (編集), 中島楽章 (編集)
出版社 ‏ : ‎ 春風社 (2021/3/31)
発売日 ‏ : ‎ 2021/3/31
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861107290
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館  220/アジ

内容紹介 p008
中国古代の世界観では、文明といえばすなわち中華文明しかない。中単の文明は国都を中心に、黄河流域の「中原」からその周囲へと同心円状に広がり、しだいに希薄化する。中華の地の外側には文明が十分に及ばないい蛮夷の地か広がり、さらにその東西南北を大海が囲んでいる。この四方の海に囲まれれた「四海の内」がすなわち「天下」である。 参照 天下と天朝の中国史-檀上 寛 /著--岩波新書 新赤版
華(夏)と夷+四海+北狄+西戎+中華+東夷+南蛮.jpg
海とは天下の外縁に茫漠と広がるマージナル(縁)な世界だったのだ。またこうした観念から、東方海上の仙境としての蓬莱島のような想像が派生することもあった。のちに東南沿海部の開発がしだいに進んでも、中華文明の外緑としての海洋のイメージは、なお根強かったようだ。例外は仏教的世外観に基づく、仏法の明地インドへの「求法」であり、7世紀に海路インドに仕復した義浄の『南海寄帰内法伝/なんかいききないほうでん』(営林昭彦他訳、法蔵館、2004年)は、この時代には数少ない渡海者自身による貴重な記録となっている。
このように古代中国(中原)では、海は天下の外縁に広がる、文明尽きる荒漠たる世界として認識していた。

これに対し、古代地中海世界では、海とは文明世界の中心部に位置し、様々な文明を結びつる交流の舞台だった。古代中国の人々にとって海域はアウェイだったが、地中海世界の人々にとってはホームだったのだ。ヨーロッパ文学の原点とされるホメーロス『オデュッセイア』はトロイア戦争の英雄オデュッセスの航海と冒険の物語であり、ラテン文学の最高峰とされるウェルギリウス『アエネーイス』も、トロイア側の英雄アエネーアースが苦難の航海の末、新天地イタリアに到達する物語であった。
さらに西アジアの人々にとっては、地中海とともにインド洋もホームとなる。アラビア文学といえば誰もがまず思いうかべるのは、インド洋の冒険航海者シンドバッドの物語だろう。
中国文学の原点である『詩経』には、江漢以下の四編は王公の権威か「四海の内」に及ぶことへの頌歌だ。ここでは現実の海や航海の情景が歌われることはない。天下の辺縁という観念としての海である。
黄河流域の落葉広葉樹林の植生や、長江流域の照葉樹林の開拓などを、各地の生態系に即して描写した多くの歌謡が収められている。『詩経』はあくまで黄河流域の「中原」その周辺の内陸部に生きる人々が生みだした歌謡である。
日本文学の原点といえる『万葉集』の題詞と歌本文で「海」を検索、計二二四件かヒット。海」の語はなくとも、海原や航海について詠んだ歌も多い。13世紀の『新古今和歌集』と詞書/ことばがき/と本文で「海」を検索、計39件と大きく減少する。多くは歌枕的な名所や、定型的な詩的表象としての海である。13世紀の『新古今和歌集』では。海は現実の渡海者から遊離して、貴族的風雅の世界の書き割りのようになってしまった。
16~17世紀初頭に成立した琉球王国の『おもろさうし』では、海に生きる人々の歌謡を集成した。特に第十「ありきゑとのおもろ」と第十三『船ゑとのおもろ』に含まれる計二八一首は、「おもろ」総数の四分の一を占めており、大部分が船や航海に関わるものだ。それらの多くは航海の無事と成功を祈る儀礼の場で唱われた頌歌であり、琉球王国による活発な海外貿易の実態を反映した歌詞も多い。
「真南風鈴嗚り/まはえすづな/ぎや 真南風 さらめけぱ 唐/とう/・南蛮 貢積で/かまへつ/ みおやせ」(真南風鈴嗚り[船名]よ、南風が吹けば、唐や南蛮の品々を積んで、王に奉れ)《船ゑとのおもろ、第780番》
夏のモンスーンを帆に受け、中国や東南アジアの物産を満載して那覇に帰航する琉球船のイメージが鮮やかだ。

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アジアの海を渡る人々--一六・一七世紀の渡海者-2021;0331 [ユーラシア・東]

アジアの海を渡る人々――一六・一七世紀の渡海者 91zC.jpgアジアの海を渡る人々--一六・一七世紀の渡海者 

上田信 (編集), 中島楽章 (編集)
出版社 ‏ : ‎ 春風社 (2021/3/31)
発売日 ‏ : ‎ 2021/3/31
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861107290
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館  220/アジ

内容紹介
中国、日本、ポルトガル、スペインなどの史料から、渡海者と外交・紛争の事例を多角的に分析。16~17世紀のアジア海域秩序の変転の諸相を明らかにする、グローバル・ヒストリーの試み。
日本史料・漢籍史料・ヨーロッパ史料を総合的に検討し、紛争と外交の事例を分析することで、東アジア海域秩序の長期変動を解明する。
【目次】
はじめに(中島楽章)
総説(上田信)
第I部 中国と日本のあいだを往来した人々
第1章 最末期の遣明船の動向と「倭寇図巻」(須田牧子)
第2章 宋素卿東渡日本考―寧波事件の歴史的前提(山崎岳)
第3章 ある明代の知識人の日本認識―鄭舜功と『日本一鑑』(袁茂萍)
第4章 嘉靖期―隆慶期海禁緩和までの倭寇政策とその変容―『籌海図編』から見る(藤井美奈)
第5章 中世後期日本人の海洋活動と東南アジア交易(鹿毛敏夫)
第II部 ポルトガル・スペイン・メキシコからの来訪者
第6章 渡海者から献策家(アルビトリスタ)へ―新キリスト教徒商人ドゥアルテ・ゴメス・ソリスの意見と企図(疇谷憲洋)
第7章 アルメニア商人は琉球に来たのか―?大航海時代の金銀島伝説と琉球(中島楽章)
第8章 メキシコ・クエルナバカ市カテドラル―長崎二六聖人の壁画をめぐって(宮田絵津子)
第9章 悲惨な海難事件の生存者たち―一六二五年ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・デ・ギア号の広東遭難(李毓中)
第III部 朝貢と外交
第10章 敵を知るなら味方から―朝鮮通信使はいかにして明使節から日本情報を「入手」したのか(米谷均)
第11章 台湾鄭氏と東南アジア―鄭氏最後の生命線(久礼克季)
第12章 日本文学のなかの鄭成功(寇淑婷)
第13章 琉球王国における漢詩の受容と展開(王尊龍)
執筆者紹介
編者略歴
上田信(うえだ・まこと)
立教大学文学部教授。専門領域は中国史・アジア社会論。著作に『海と帝国―明清時代』(講談社、2005年)、『シナ海域蜃気楼王国の興亡』(講談社、2013年)、『貨幣の条件―タカラガイの文明史』(筑摩書房、2016年)など。
中島楽章(なかじま・がくしょう)
九州大学人文科学研究院准教授。専門領域は中国社会史、東アジア海域史。著作に『明代中国の紛争と秩序―徽州文書を史料として』(汲古書院、2002年)、『徽州商人と明清中国』(山川出版社、2009年)、『大航海時代の海域アジアと琉球―レキオスを求めて』(思文閣出版、2020年)。

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