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アジアの海を渡る人々--総説(上田信)--p015-16世紀以前のアジア海域ーよりノート① [ユーラシア・東]


 人類の営為のなかで、海を渡るという行為ほど、人間的なものはない。陸上の生物として生まれたヒトが海を渡るには、未知なものに対する興味、海原にこぎ出す勇気、そして風向きや海流を読み解く知恵、航海の手段となる船舶を創る技術を持ち合わせていなければならない。
アジアの海では、先ずは、丸木舟から発達した、舷側から2本の腕木をつきだし、その先端に太い丸太などの浮力体を船体に平行に取りつけるアウトリガーで横安定を保つ帆船だったらしい。それは東南アジアの8~9世紀のものとみられる寺院の浮き彫り壁画に描かれている。
アウトリガー20111017_).jpg
紀元一世紀にギリシア語で著された『エリュトラー海案内記』には、すでに、絹の産地として中国(チン、秦に由来する)が登場する。

また、アジアの海はモンスーンが支配する海である。季節に応じて時に応じて風向きを変えるそのモンスーン風を読むことだできれば、インド洋を東西に、シナ海を南北に往復することか可能となる。
モンスーン02.jpg
おそらく人類史上最初にモンスーンを大航海に利用した人々は、紅海とインド亜大陸を経てマレー半島まで航行した西の航海者であったと想像される。
ペルシャ、アラブ系貿易船は、紀元前にはインド洋北西部に航跡を描き、7世紀後半には東南アジアを回って南中国に達した。
唐王朝時代の671年広州から仏法の聖地インドへ「求法」に海路出発、694 年に広州に海路帰着した時に乗ったのは波斯船つまりペルシアの船であった。
日本に戒律を伝え唐招提寺の開基となった鑑真は、5 回目の挫折の折・750年には《〔広州には〕バラモンの寺〔ヒンドゥー教寺院〕が三箇所もあり,どれもバラモン僧が住んでいる。その池には青い蓮があり,それは変わっていて,花も葉も根も茎も芳香を放つ。川の中に婆羅門 〔インド〕 ,波斯〔ペルシア〕 ,崑崙〔東南アジア〕 等の船舶が無数にあり,みな香薬・珍宝を山のように積載している。その船舶は深さが六,七丈もある。師子国〔スリランカ〕,大石国〔=大食=アラブ〕,骨唐国〔不詳〕,白蛮,赤蛮等が往来居住していて,その種類がたいへん多い。》と記している。1丈は3メートル余りなので6,7 丈だと20メートルになる。
彼らは釘を用いずに部材を縫合した三角帆のダウ船を操り、モンスーンに乗って中国を訪れた渡海者であった。
唐王朝の中国の特産品である絹織物(きぬおりもの)や陶磁器を西の世界へ運び、コショウなどの香料や南方の産物を運び込むことは大きい利益を生む、いい商売だった。
唐代には西から海を渡ってきた人々が、華南の広州に居留地を作り、集住していたことが知られている。
唐末に黄巣の軍勢が878年に広州を襲ったときに、アラブ人やペルシア人など10万人を超える西方の渡海者とその関係者が殺されたとされる。この件で、アラブ商人の中国貿易は大きい打撃を受け、マレイ半島周辺に根拠地を後退させることになった。そのあとを追うように、中国商船隊が海上貿易に乗り出した。
続く


ダウ船61dpOMuL.__.jpgダウ船(英語:dhow)
・アラブArab起源。 アラビア海(Arabian Sea)と紅海海域とインド洋(the Indian Ocean)を航行している。
・帆:船首と船尾を結ぶ線に沿って縦帆(じゅうはん、fore-and-aft sail)と呼ばる帆を張る。 三角型の三角帆の斜辺を長い桁/けた/で支え、帆の下端が帆柱より前に飛び出している。このため、帆の角度を少し調整するだけで、横風を利用して直進可能である。
・船体:縫合船と呼ばれる釘を用いず剛性を持たない柔軟な船体を持つ。船体の舷側板はココ椰子繊維などの紐で縫い合わされる。板に紐を通す穴をあける方法だけでなく,板を削るときに突起を残してこれに紐を懸けることもある。
板と板の間隙には、樹脂やタール、特定樹種の樹皮などの油脂を詰め埋める。タール状の粘土で防水したいわば袋状である。
積み荷や波によって柔軟に形を変え、応力を分散、耐波性も高い。
船体が柔軟なため、暗礁に衝突しても変形して力を逃し、大きく破損しない。また、破損、浸水しても縫い直す、張り替える、タールを塗り直す等で修理が容易である。構造上、小型船が中心。

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