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韓国の開国―雲揚号(うんよう)事件をめぐってー申國柱 1957年 [ユーラシア・東]



覚え書  より

一九世紀の前半から後半にかけて、欧米資本主義諸国は、古代からその文明をほこった東方の諸国をつぎつぎに征服し、さらに極東にまで侵略の手を延ばし、中国と日本の閉鎖された門扉を叩いて、開国を強要した。しかし、このような世界分割のための列強間の闘争のうちで、韓国は最後まで取残された鎖壌国として閉じこもったのである。

 
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なぜ韓国の開国が最後まで取残されたのだろうか。

その理由について、ここに若干指摘しておきたい。まず、韓国の位置が地形上アジア大陸に接し、日本、琉球列島を防波堤となし、太平洋から奥深く入りこんでいる関係から、当時欧米諸国が極東方面に交通を求めて来たのは、陸路よりも専ら海路によったので、まず中国が、ついで日本が着目せられた。

すなわち、当時欧米諸国から海路極東方面に向う船舶は、いずれも中国の南部の広東を中心点とし、これから上海、天津へと北上し、日本では長崎がその中心点をなしていた。 

しかるに韓国の位置は、この航路から見れば、遙か北方に入り込んでおり、従って朝鮮海峡を経て、日本海に向うか、また黄海を北航して、華北・南満州方面に向う航路が開けないかぎり、韓国沿岸を訪れる機会は全くなく、かつこの方面の航路は、経済的価値も少なかったために、韓国の開放は長い間捨てて顧みられなかった。 

また当時韓国官人政府の対外政策は、「事大」「交隣」に局限され、その他の外国人との交通は固く禁じられ、韓国人は、中国以外の諸国に対して、何らの認識もなく、よって国際的活眼を全然具備しなかった。中国が欧米諸国と開国した以後も、韓国は独自の立場で欧州諸国と交渉を非常に恐れ、中国を通じて、西洋の自然科学やキリスト教などをとりいれた。
ところが、一九世紀の中葉にいたると、天津、牛荘、芝果・などが外国貿易港として開かれ、華南から華北にいたる航海が頻繁を加えると、韓国西海岸が欧米諸国の注目をあつめ、ついで欧米諸国の船舶が韓国人の前に直接姿を現し、朝野に大きな不安を与えた。南からはイギリスとフランスが北上し、北のシベリヤからはロシアが南下し、東からはアメリカが鎖国の夢を貧る韓国へ襲ってきた。すなわち、西紀一八三一年、イギリスの商船が忠清道洪城郡古代島付近に来泊し、公然と交易を求めたのを皮切りに、一八四五年の夏にはイギリスの軍艦サマラング号(Salnafalg)が、湖南興陽より済州島沿海を測量し、通商を求めてきた。
一八四六年にはフランスの軍艦が忠清道の洪州沖に現れ、一八六五年にはロシア船隊が威鏡北道慶興の沖に来泊し、ことに一八六六年にはフランス艦隊が首都に近い江華島を一時占領した。また同年、アメリカの商船シャーマン号(General.Sherman)が大同江に来航して通商を求めが、韓国官民のために焼打に遭い、全船員が殺害された。この事件の報復のため、一八七一年にはアメリカ艦隊が江華島を占領したが、韓国軍によつて撃退された。かくの如くして欧米諸国の艦船は、つぎつぎと韓国水域に出没したので、韓国官人政府は、いっそう不安におそわれ、朝野の動揺を深めた。
このような情勢に直面した韓国官人政府は、宗主国の中国が欧米諸国の侵略に苦しんでいる状況を知っていたので、なおさら欧米諸国の開港要求に危険を感じ、その要求に応じなかったのである。
韓国官人政府は、開国を拒否し、鎖国を守るために邊防を固め、さらに西洋の宗教である天主教に対して、正祖王以来の禁教政策を実行し、その信者教徒に対して大弾圧を下し、一八六六年には約三万人の信徒を処刑した。
またアメリカ商船が大同江を来航して通商を求めたときには、それを焼き払い、フランスやアメリカの艦隊の江華島占領に対しては、強く抗戦*した。そしてこの韓国の抗戦が成功し、外国軍隊が江華島から退去すると、韓国の排外政策は一層硬化し、「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国」という激烈な文字を刻した一大碑*を京城を中心に八道の全国の市邑に建てることになった。
 【 * 1866年10月、丙寅洋擾(へいいんようじょう、병인양요、ピョンイニャンヨ、Byeong-in yangyo);洋夷侵犯 (西洋諸国が侵攻し). 非戦則和 (戦わず和を結ぶなら). 主和売国 (それは国を売ることだ)】
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これに加えて、欧米諸国は、韓国にまで積極的に手を伸す余裕がなかったのである。
 一九世紀の中葉頃、列強の先頭に立ってアジアを侵略していたイギリスは、インドの経営と中国侵略に余念がなかった。
またロシアもシベリヤや沿海州の開拓に忙しく、フランスは華南や安南の侵入に無中であった。またアメリカも南北戦争後の経営に追われ、韓国の抵抗を押し切るほどの強い態度がとれなかった。
 
このようにして欧米諸国は、国際的・国内的諸条件によって、たびたび韓国へ来航し、通商を求め、時には江華島を占領したが、それは韓国を武力的に占領して領有しようという意図ではなかった。
フランスの場合は、宣教師の殺害に対する報復であり、アメリカの場合も、アメリカ商船の焼払事件に対す報復であったと思われる。このような国際情勢のもとで、韓国の鎖国政策は拍車を加え、中国との関係だけを重じ、一切の欧米諸国との交通を排斥して、韓国は安逸を享有していたので、西洋人から東洋の「隠者の国」と称せられ、最後までその開国が取り残された。

しかしその鎖国政策も、一時は成功したかのようであったが、それは決して永くつづかなかった。日本はアメリカが日本に対して開国を迫ったときと同様な手段で、韓国の鎖国を破るために第一歩を向けたからである。
一八五三年ペリー提督が引率したアメリカ艦隊によって、韓国よりもはやく門戸を開いた日本は、そののち、明治維新の革命を終え、近代資本主義文明を取入れ、欧米諸国にならって国内制度の改革を断行し、東洋における唯一の近代国家として発展の途上にあった。
欧米資本主義諸国の仲間入りをした日本は、国内の商品市場が極めて狭く、原料資源も貧弱であった。このような事情から、日本の資本家達は、その発展を計るために、はじめから軍事力に依拠して、海外から原料と食糧の供給を受け、その商品を販売する市場を海外に求めた。
 
一九世紀の後半には、資本主義列強の間に海外植民地略奪のための闘争が、激しく展開され、東洋侵略に乗り出した欧米諸国間の矛盾と葛藤を、日本資本主義は、うまく利用しながら、またその範をとりながら、いわゆる軍事的・封建的帝国主義として、富国強兵・侵略主義をその対外政策にうちだした。
 
一八七二年に、日本は中国の領土であった琉球諸島を征服し、一八七四年に台湾侵略にのりだした。それと同時に朝鮮もまた日本資本主義の直接の侵略対象になった。
 
元来、日本は韓国と三百年間友好関係を保ち、徳川幕府が鎖国したときにも、韓国とは国交を続けた。幕末の騒乱期には、国交が一時停止状態になったが、明治維新直後、日本は王政復古を知らせて、韓国に対して国交を求めて来たが、韓国政府は、日本の国書が慣例に違反しているというので、その要求を拒否した。その後、日本は幾度も外交使節を釜山に派遣して交渉したが、韓国政府は頑強にごれを拒否した。
 
そこで日本の国内には、不平武士群を主体として対韓強硬論が抬頭し、ついに明治六年には日本朝野はいわゆる征韓論でわきたった。すなわち、西郷を中心とした大陸派は征韓論を唱え、武力をもって断然戦端を開くべしと強調したが、欧米から帰国した岩倉具視を中心とした内治派は、まず内治を整え、国力の充実をはかったうえで、外に対抗しなければならないと主張し、対外強硬政策を時期尚早とし、内政改革の急務を提唱した。
 
かくして明治政府は、征韓の時期とその主導権の問題をめぐって、意見が分裂し、結局、征韓を主張する西郷一派が敗北し、征韓論は実行されずに終った (一八七三年 )。しかし西郷一派を抑えた政府も、征韓そのものに反対ではなく、政府の基礎を固め、国力の充実をはかってから実行しようとしたので、ただその時期と方法において反対しただけである。だから明治政府は、自己の方法と力で征韓を実行しようとし、その機会をねらっていたのである。
 
それからまもなくして、日本国内には大久保を首班とする政府に対して、左右両翼から批判する声がたかまったおり、大久保と同じ薩摩出身の雲揚号井上艦長は、征韓論意識に基づいて、韓国を挑発して江華島事件を起した。
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 日本軍艦 雲揚(うんよう)号/木造汽船:排水量245トン;定員:65名/が対馬、朝鮮の海路研究で韓国東南海岸航行の命を受け、1875明治8年5月10日に品川を出港し、 25日に釜山に到着し、韓国東南海岸航行の使命を約3か月かけ同年 (李太王十二年)・九月に終えた。さらに海軍省の命令で、韓国の西海岸へ示威運動の目的を以って行動中 (日本側は海路の測量を行わんとしたと称した )、淡水欠乏のために、江華島に近寄った。江華島は李氏朝鮮の首都、漢城府(かんじょうふ、ハンソンブ、現在のソウル)へ漢江を遡る河口にある島。半島部本土とは200~300mしか離れてない。その漢江口に雲揚本船を投じ、ボートにて江華島南の河口を溯り・さかのぼり・、良水を請求せんとした。韓国は外国軍艦が故無くして、領海に侵入したものとなし、江華島砲台より砲撃を加えた。雲揚号にはなんら損害はなかったが、艦砲で応戦、江華島砲台を破壊。さらに南の永宗島(えいそうとう/ヨンチョンド)に上陸占領し、城内の官衛や民家を焼払い、朝鮮人35人を殺害。「銅砲三六門を」鹵獲し、同年九月二八日に長崎へ帰還した事件である。
この雲揚号事件を契機として、日本の世論は、再びわきたち、先きの征韓・征台に強硬に反対した木戸が、態度を一変して対韓強硬を主張し、況や大久保も好機逸すべからずとして、開戦も辞せずの強硬方針を決し、六隻の艦隊をもって、黒田清隆、井上馨両全権を韓国へむかわせ、ついに一八七六年二月、武力的威嚇のもとに、いわゆる江華条規を結び、韓国の開国を議定せしめたのである。この条約の内容とその影響等は、次節に譲るが、日本はこの条約の締結に際して、幕末外交での被告としての日本の体験を、まさに逆に韓国に向って原告として強要し、これによって「東洋経略」宿志を実現する第一歩を踏み出した。

タグ:朝鮮半島
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