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近代日本の戦争と宗教ー2010年 [明治以後・国内]

近代日本の戦争と宗教  
著者 小川原正道 /オガワラまさみち  
出版者 講談社  講談社選書メチエ  474  大きさ 19cm 222頁
出版年 2010.6
ISBN 4-06-258474-6
新潟県立図書館収蔵本 /210.6/O24/
 内容紹介
 
明治国家の歩みには、戦争がともなっていた。そうした戦いのなか、宗教は、神社界、仏教界、キリスト教界は、国家といかに向き合ったのか。従軍布教や軍資金の提供といった積極的な協力姿勢から、反戦論・非戦論をはじめとする消極的姿勢まで、その実態を描く。

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目次
 
ブロローグ ー「前奏曲」として・・・・・002頁
  
第1章 戊辰戦争と宗教―権力交代劇の狭間で
 ㈠ 戦争と本願寺・・・・・014
 ㈡ 神職たちの戦争と天皇の祈り・・・・・022
 ㈢ 徳川家菩提寺のゆくえ・・・・・030
 
第2章 台湾出兵―初めての海外派兵と軍資献納
 ㈠ 初の海外派兵と大教院・・・・・040
 ㈡ 出兵と神宮・出雲大社・・・・・050
 ㈢ その他の神社界の動向と外交交渉の妥協・・・・・058
 ㈣ 凱旋と教導職賀章上呈・・・・・061
 
第3章 西南戦争―日本最期の内戦の中で
 ㈠ 教部省の廃止と戦争の勃発・・・・・070
 ㈡ 戦争下における真宗・・・・・075
 ㈢ 戦争下における神社・・・・・092
 ㈣ 真宗解禁の意義とその後の田中直哉・・・・・098
 
第4章 日清戦争―アジアの大国との決戦と軍事支援
 ㈠ 戦争の勃発と仏教界の協力・・・・・106
 ㈡ キリスト教界の協力と戦争観・・・・・115
 ㈢ 神道界の動き・・・・・125
 ㈣ 「従軍」から「開教」へ・・・・・130
 
第5章 日露戦争―列強との対決と「団結」
 ㈠ ロシア正教迫害問題の発生と正教側の対応・・・・・136
 ㈡ ロシア正教問題に対する政府・宗教界・軍の対応・・・・・146
 ㈢ 日本軍の展開と従軍布教・・・・・162
 ㈣ キリスト教界と非戦の声・・・・・177
 
エピローグ ― 「交響曲」へむかって・・・・184
あとがき・・・・190
註・・・・194~222

 
 
著者紹介
小川原正道[オガワラまさみち] 1976年長野県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。同大学法学部准教授。専攻は、専攻は、近代日本政治史・政治思想史・宗教行政史。著書に「西南戦争」「評伝岡部長職」「大教院の研究」など。
 
ブロローグ ー「前奏曲」として
近代日本の戦争と戦没者慰霊
 明治三十八(1905)年五月一日。東京九段の靖国神社で日露戦争の戦死者約三万名の招魂式が執り行われた。この日から四日闇、境内では戦勝を祝う臨時大祭が開かれ、「国光発揮」と記されたアーチが入り口にかけられ、中には「忠勇」 「義烈」と書かれた二本の塔ひそびえ立った。会場には戦場で獲得した戦利品が陳列され、相撲が奉納され、花火が打ち上げられ、鉄塔も華やかに電飾された。
 日露戦争の戦没者で靖国神社に合祀されたのは約八万八千名にのぼり、この頃から、祭神は「英霊」と呼ばれるようになる。すでに小学校では、唱歌「招魂祭」が歌われていた。
 
こゝに喬マツる。君が霊ミタマ。蘭はくだけて。香に匂ひ。骨は朽ちて。名をぞ残す。机代物。うけよ君。
此所にまつる。戦死の人。骨を砕くも。君が為。国のまもり。世々の鑑。光りたえせじ。そのひかり。
 
 十年前の日清戦争では約一万四千名、その十七年前の西南戦争では約七千名が、靖国神社に合祀された。西南戦争は内戦てあったため、ぽぼ同数の薩軍将兵が戦死している。戊辰戦争後に設けられていた車京招魂社が靖国神社と改称されたのはこの西南戦争後のことで、『春秋左氏伝』にある 「吾以靖国也」から名前がとられた。国を清く安んずる、といった意味である。
 戦争と宗教との関係を考えるとき、我々の念頭には、まずこうした戦没者の慰霊や追悼といった取り組みが思い浮かぶであろう。そして、戦前の靖国神社が陸海軍によって管理・運営され、僧侶が軍に随行して前線で葬儀を執り行ったように.その慰霊と追悼は.「国家」や「顕彰」と分かちがたく結びついていた。靖国神社に限らす.戦争に際して神社界や仏教界.キリスト教界は.戦争を遂行する「国家」といかに向き合うか.という課題に直面することになる.そこには「国光発揮」「忠勇」「義烈」といった言葉に象徴されるような、参加、協力、支援や賞賛といった積極的姿勢から、反戦論・非戦論をはじめとする批判、あるいは沈黙、逃避といった消極的姿勢まで、さまざまな態度をみてとることができる。
 明治期の日本は、戊辰戦争によって旧幕府勢力が打倒されて新たな政権が誕生し、台湾出兵によってはじめての海外派兵を経験し、西南戦争によって国内の批判分子が一掃され、日清戦争・日露戦争の勝利によって対外的な地位を向上させていく。かくして明治時代はおわり、やがて日本は第一次世界大戦によって戦勝国の一員となり、満州事変によって大陸での版図を拡大し、日中戦争・太平洋戦争で大日本帝国の規模を最大限に拡大したところで、敗戦によって一気にその範囲を隔小させる。
 その「国家」のあゆみに対し、宗教はいかなる反応をみせたのか。本書は、ます明治期に焦点をあて、その実態を描いてみようとするものである。
 
日清・日露戦争のインパクトと本書のねらい
 
 これまでで近代日本における宗教と戦争との関係を考えるとき、画期として注目されてきたのは、日清・日露戦争であった。
 明治六年に真宗東本願寺派が中国布教に乗り出して以降.明治十年には同派の釜山別院が創設され、真宗西本願寺派は明治十九年にウラジオストックに僧侶を派遣して布教にあたらせ、浄土宗は明治二十七年にハワイに布教徒を送った。仏教各派のこうした初期の開教が、現地在留邦人の要求に応えるという性格が強かったのに対し、日清戦争では従軍・慰問・現地宣撫といった軍事行動に附随する宗教活動が展開され、日露戦争でも開教使が従軍して慰問や教誨にあたり、満州開教の遁が開かれた。西本願寺派の清国・韓国開教の発端は日清戦争にあったし、戦後には台湾開教の道も開かれ、日露戦争では釜山や大邱に臨時出張所や仮布教場を設置して軍隊布教を展開、京城には韓国開教総監部が設置された。以後、満州での日本権益拡大や、韓国併合、第一次大戦による南洋諸島の委任統治、そして日中戦争から太平洋戦争へと進む過程で、各派の教線や従軍僧の活動範囲が拡大していく。
 真宗が戦争に協力し、政治を翼賛していく論理として、「真俗二諦論」が用いられたことは、よく知られている。真宗西本願寺派では、仏教の真理(真諦)と世俗の真理(俗諦)が共に真理として両立するとする真俗二諦論に依拠した「宗制」のもと、戦時下において、当時の門主から僧侶に戦争協力を呼びかける「消息」が発せられた。実際、日露戦争に際しても東西両本願寺の門主は、真俗二諦、王法為本の立場から積極的に戦争に協力するよう門徒に呼びかけている(なお、本願寺派は平成十九年の臨時宗会で「宗制」を変更し、これらの「消息」を含めた歴代宗主(一部の宗主は除く)の撰述を「聖教に準ずる」扱いから外すこと、また真俗二諦的な表現を削除することを決議した。)
 神道界に目を向けると、日清戦争に際して伊勢神宮に勅使が派遣されて宣戦奉告祭が催され、戦後には平和克復奉告祭が開催、外苑に記念砲が献偏された.日露戦争の際も神宮では宣戦奉告祭が催され、戦後には明治天皇が平和克復奉告のために参拝し、外苑には戦利品の大砲が設置されている。第一次大戦時も宣戦奉告祭と平和克復祭が催されており。太平洋戦争でも宣戦奉告祭が開かれた。その終結にあたって催されたのは。戦争終結奉告祭と皇国護持祈願祭である。日露戦後に日本が南満州鉄道の利権を獲得すると、満州の日本人居留地域から中国奥地に至るまで、続々と神社が設立されていく。朝鮮では日清戦争以前から居留民の手で神宮遥拝所が設立されていたが、日露戦争当時から教化的意味合いを含めた神社創建が主張されるようになり、韓国併合後に官幣大社朝鮮神宮(朝鮮総鎮守)が創建された。すでに台湾では。日清戦後に官幣大社台湾神社(台湾総鎮守)が創建されていた。戦前に存在した海外神社の総数は、千六百以上にのぽるといわれている。
 
 昭和四二年に日本基督教団出版部が刊行した『日本基督教団史』は.昭和期に入って全休ぶ『義的傾向が強まる中、「キリスト教も、ついに引き出されて、いやおうなしに、国策の一部の担い手とされはじめた」として、教団の設立や戦時下の教団の動向、戦後の教団の複興の過程について詳述しているが、同時に、すでに大正期までに「キリスト教各派の宣教は、前時代の線に沿うてなされ」、台湾、朝鮮、満州、中国などへの外地伝道を積極的に展開していたことにも、ふれている。「前時代」の画期となったのが、日清・日露戦争であったことはいうまでもない。植村正久、本多庸一、海老名弾正といった名だたるキリスト者たちが、戦争への協力を呼びかけた。
 
 こうした意味で、日清・日露戦争が近代日本における宗教にとって、大きなインパクトをもたらしたことは間違いない。
 
 しかし、すでに戌辰戦争の際には、仏教や神道勢力には積極的に新政府軍に協力する姿勢が見られたし、冒頭で触れた靖国神社の前身である東京招魂社が創建されたのも明治二年で、維新志士や戊辰戦争の戦没者の慰霊と顕彰に収り組むところから、その活動をスタートさせていた。西本願寺派は戊辰戦争に際して新政府軍に協力し、その戦闘にあたっても「勤王」の姿勢を貫くよう消息を発していた。これまで宗教との関係についてほとんど目を向けられてこなかった台湾出兵に際しても、日本軍の出兵によって清国との開戦の危機が発生したことから、伊勢神宮や出雲大社などから多頷の軍資金が寄せられ、天皇による神宮への祭告と詔勅による宣戦布告、そして天皇親征による戦争の遂行が提案された。西南戦争では、政府に対して批判的な鹿児鳥の人々を慰撫すべく浄上真宗が真俗二諦論を掲げて布教に乗り出すものの、僧侶たちは政府の密偵と疑われて逮捕され、逆に鹿児島県内の神社は薩軍側に協力したことで、敗軍としての痛手を負うこととなった。また、日清・日露戦争においては、仏教界、キリスト教界を挙げて、『義戦』としてこれを支援し、僧侶や牧師等が従軍して士気を鼓舞し、経済的な負担をはじめとする銃後の支援も担ったが、とりわけ日露戦争においては、ロシア側が「キリスト教対異教徒」という戦争の構図を持ち出し、日英同盟と列強における外偵募集を支えとして戦っていた日本にイデオロギー的なくさびを打ち込もうとしたため、日本国内の仏教者やキリスト者、神道家たちは政府とともに結束して国内のロシア正教を保護し、「文明対非文明」といった別の構図を提示していくこととなった。宗教界における戦争に対する批判的言説としては日露戦争の際の内村鑑三の非戦論が有名だが、仏教界にも非戦論はみられたし、台湾出兵の際にはすでに僧侶から戦争反対意見が政府に提出されており、時の政府中枢のもとにまで届けられていた。これらの諸事実は今日、一般にほとんど知られていない。
 以上のような点から、本書では戊辰戦争にまで遡って、戦争と宗教とのかかわりについて論じていきたい。もとより、靖国神社研究をはじめとして、戦没者の慰霊や追悼といった側面については、これまで多くの研究が蓄積されてきた。最近のものだけに限っても、
秦郁彦『靖国神社の祭神たち』(新潮逸書、半成二十一.乍)、國學院人學研究間発推進センター編『霊魂・慰霊・.顕彰』(錦下卜、平成ニト二年).同『慰霊と顕彰の間』〔錦f祉、斗成二丿年〕’Sj神社編『故郷の護閥神社と蜻國神社』(展転刳、平成卜九乍)、西村叫『戦後日本と戦争死者慰霊』(心志舎、平成十八年)、赤渾史朗『靖圃神社』(岩波書店、半成I七乍べ人野敬一『慰霊・追悼・顕彰の近代』〔吉川弘文郎、平成卜八乍〕、今珪昭彦『近代日本と戦死者祭祀』(東洋3林、平成卜七乍)など、
 
枚挙に遑がない。そこで本書では.慰霊・追悼の側面については必要な範囲で言及するにとどめて、あとはこれらの優れた研究にゆずり、主に、戦争を遂行する「国家」に対して宗教各派がいかなる協力や反対といった「反応」を見せたのかという「実態」をみていくことにする。宗教各派は、その壇家や信徒を戦争に動員する物理的な力と、戦争を教義に基づいて正当化する精神的な力とを有している。いうまでもなく物理的動員の放棄や教義妁正当性の否定は、戦争を遂行する国家にとって痛烈な痛手となる。その意味で、『実態』の考察は、戦争という国家的危機に際しての宗教による物理的・精神的国民動員・非動員の『実態』を明らかにすることにもなろう。宗靫をめぐる紛争が絶えない今日、我が国の歴史的系譜をたどっておくことは。決して無駄ではあるまい。
 
 浄上真宗西本願寺派がその「宗制」の変更を平成十九年に実施したように、昭和期の戦争に対する宗教界の動向についてさえ。いまなお、検証、反省、回顧の段階にある。日中戦争期に「戦争は罪悪である」などと発言したため陸軍刑法によって有罪判決を受け、大谷派から法要座次を最下位に落とす処分を受けた大谷派明泉寺の住職竹中彰元シヨウゲン が、大谷派によって公式にその名誉を回復したのも、平成十九年のことである。平成九年にブライアン・ヴィクトリア氏が「Zen at Wap」を出版して禅宗が深く日本の軍事行動にかかわっていたことを叙述し、四年後に邦訳『禅と戦争』(光人社)が刊行されると、同宗妙心寺派は戦争協力の過去について遺憾の意を表明した。妙心寺派の河野太通管長は平成二十二年四月、これまでの同派の懺悔によって、「妙心寺派は人命尊重、人権尊重という釈尊の教えの二つの柱に基づいて過去の誤りを反省した。この点で戦前とはがらりと変わった教団となったこを銘記し、教化活動に当たってほしい」と力説している。
 
キリスト教界でも、日本基督教団が戦争協力について謝罪したのは昭和四二年だが.「反省」のときはなお続いており、平成ニ十年には『ミッションースクールと戦争-立教学院のディレンマ』(東信堂)が上梓され.学院自身の手によって戦時下の学院の動向に詳しい検討が加えられた。明治期の戦争と宗教の関係については、歴史的事実そのものの多くが、資料のなかに理もれたままとなってきた。
 
 昭和期の戦争に対する宗教の協力を不気味な交習曲にたとえるなら、我々はそのフオルテッシシモを大平洋戦争の戦時体制下で耳にし、いまなお、その余韻のなかにいる。その交響曲を導く前奏曲は、明治期から流れはじめていた。その調べはいかに形成され、展開されていったのか。これが、本書を通じて読者諸氏に届いてほしいテーマである。
 我々はまず、時代を戊辰戦争勃発のとき、すなわち慶応四年の一月にまで、遡ろう。

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