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「越後蒲原平野の開発と浄土真宗の展開を考える―長谷川伸」を近世の環境と開発 ・ 2010から② [農から見つめる]

近世の環境と開著者 根岸茂夫 /編, 大友一雄 /編, 佐藤孝之 /編, 末岡照啓 /編  

出版年 2010.12  出版者 思文閣出版

県立図書館収蔵 /210.5/N62/

から

第二編 開発と景観・生活・生業
中世~近世初期、低湿地における「村」の形成過程――越後蒲原平野の開発と浄土真宗の展開を考える―― 長谷川伸/著  117頁~143頁
松ヶ崎堀割の決壊の調べ。
阿賀野川の堀割新潟市北区のWebページなどより
江戸時代以前、砂丘に遮られて荒川河口から信濃川河口までの間に、日本海に直接流入する河川はありませんでした。そのため、人々は常に水との闘いを余儀なくされていました。
 新発田藩は、紫雲寺潟干拓や福島潟開発を目論み、行いました。この工事には、新潟湊の水位の低下を心配する新潟町の猛反対がありました。そのため、増水分だけを流す堀とすること、堀割が破壊されたらすぐに復旧すること、湊として使用しないことなどを条件に実施されました。
 阿賀野川を松ヶ崎で全長は約690m、平均幅約54mで掘り割り、日本海に直接流す工事を享保15年(1730年)に行いました。翌年・1731年の春の雪解け水・雪代洪水で堰は破壊され、幅が約5倍・270mに拡大し、掘割りが阿賀野川の本流と化してしまった本流となってしまいました。この結果、阿賀野川の水位は4尺(約1.2メートル)も下がりました。
、島見前潟は美田となり、福島潟周辺にも広大な干上り地ができたといわれます。以後、阿賀野川右岸の開発は急速に進展することとなり、葛塚をはじめ多くの村が成立しました。反面、新潟湊への水量増加のための工事や用水の確保のための新江用水の開削など多くの負担を背負うこととなりました。

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