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宇宙人類学の挑戦―人類の未来を問う [視座をホモサピエンス]

宇宙人類学の挑戦―人類の未来を問う
岡田 浩樹[オカダひろき]/木村 大治[キムラだいじ]/大村 敬一[オオムラけいいち]【編】
昭和堂(京都)(2014/06発売)
ISBN 4-8122-1416-9
NDC分類(10版) 389.04
新潟県立図書館収蔵
内容紹介 「人類とは何か。我々はどこからきて、どこに行くのか」 この根源的な課題に正面から迫ろうとする真摯で果敢な人類学者たちが、人類が宇宙に進出したとき、人類学に求められる任務とは何かを考察する。
「地球」という限定された空間を超えて、「宇宙」 という新たなフロンティアから人類を見つめ直す宇宙人類学の可能性を示し、問題提起を行うこと
目次
序章 クオ・ヴァディス・アントロポス(人類よ、いずこへ行きたもう)?・・・大村 敬一・・・1ー23
第1章 天文学者から人類学への問いかけ・・・磯部洋明・・・25-53
第2章 人類学のフィールドとしての宇宙・・・岡田浩樹・・・55ー82
第3章 ファースト・コンタクトの人類学・・・木村 大治・・・83ー110
第4章 宇宙空間での生は私たちに何を教えるか・・・佐藤知久・・・111ー145
第5章 未来の二つの顔・・・大村敬一・・・147‐183
終章 果てしなき果てをめざして・・・内堀基光・・・185‐203
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著者等紹介
岡田浩樹[オカダひろき]
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。専門は文化人類学
木村大治[キムラだいじ]
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。専門は人類学、コミュニケーション論
大村敬一[オオムラけいいち]
大阪大学大学院言語文化研究科准教授。専門は文化人類学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
各人の
大村敬一[オオムラけいいち]pdf
岡田浩樹[オカダひろき]
木村大治[キムラだいじ]


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阿片帝国日本と朝鮮人 [視座をホモサピエンス]

98-WESZ4RpcL.jpg阿片帝国日本と朝鮮人
著者 朴 橿 /パク カン
 訳者 小林 元裕 コバヤシ モトヒロ
 訳者 吉澤 文寿   ヨシザワ フミトシ
 訳者 権 寧俊   クオン ヨンジュン
出版者 岩波書店
出版年 2018.3
大きさ 22cm ページ数 12,221,4p
ISBN 978-4-00-022100-9 
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館 NDC分類(9版) 334.51
内容紹介 帝国日本の経済を下支えした麻薬。その流通販売の末端には、移民として東北アジアに渡った朝鮮人たちがいた。彼らは何故麻薬を売らねばならなかったのか。朝鮮人密売者の丹念な調査を通じ、植民地経済の構造に迫る。
目次
まえがき
序 論
第一章 二〇世紀前半における日本のアヘン政策
 一 日本のアヘン政策の背景
 二 日中戦争以前の日本のアヘン政策
 三 日中戦争勃発以後におけるアヘン政策の拡大
 四 小結――日本によるアヘン政策の性格
第二章 中国における麻薬拡散と日本
 一 中国における麻薬拡散の背景
 二 日本の麻薬製造及び密輸出の拡大
 三 麻薬拡散に対する日本政府の対応及びその責任
 四 小結
第三章 朝鮮における日本のアヘン政策
 一 日本の朝鮮・麻薬供給地化構想
 二 第一次大戦終結後における朝鮮内麻薬消費の増加
 三 満洲事変勃発以後におけるアヘン供給地としての役割の増大
 四 小結
第四章 在満朝鮮人のアヘン・麻薬密売
 一 朝鮮人の満洲移住とその実態
 二 アヘン・麻薬と在満朝鮮人の活動
 三 満洲国のアヘン専売実施と密売問題
 四 朝鮮人のアヘン・麻薬密売と満洲国の対策
 五 小結
第五章 華北移住朝鮮人によるアヘン・麻薬の密売
 一 日中戦争期日本の華北アヘン政策
 二 華北移住朝鮮人とアヘン・麻薬密売
 三 小結
第六章 ロシア移住朝鮮人とアヘン
 一 ウスリースク市付近における朝鮮人のアヘン生産の背景
 二 朝鮮人のアヘン生産及び密売
 三 朝鮮人社会とアヘンとの関係
 四 小結
結 論
参考文献
解 説(小林元裕)
訳者一覧
索 引

タグ:阿片
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台湾統治と阿片問題--1983 [視座をホモサピエンス]

20210926.jpg台湾統治と阿片問題  
劉明修/著 -- 山川出版社 -- 1983.8 --  (近代日本研究双書 )

県立図書館収蔵本 新潟大学附属図書館


明治31年(1898年)3月、児玉源太郎が台湾総督となると後藤新平を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という思想だった。
阿片漸禁策
当時は中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で蔓延しており、これが大きな社会問題となっていた。また、「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法を採らなかった。
後藤はまず、阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。
しかし後藤の阿片政策には、後藤自身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片専売収入増加を図るために、阿片吸食者に売る阿片煙膏のモルヒネ含有量を極秘裡に減らして、より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、総督府専売局が、後藤と癒着した星製薬(創立者の星一が後藤の盟友である杉山茂丸の書生出身)以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒んだことから、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生したことが明らかにされている
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タグ:阿片
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阿片・・法務省の犯罪白書(はんざいはくしょ)の「薬物犯罪」 [視座をホモサピエンス]

日本は、法務省の犯罪白書(はんざいはくしょ)の「薬物犯罪」で扱っている。
令和2年度版で、「令和2年(2020年)の世界薬物報告書(以下この節において「報告書」という。)から,世界における薬物の使用,生産及び不正取引の状況について紹介」として第7編/第7章 国際的な薬物犯罪対策等 がある。
 「傾向を大まかに見ると、我が国は諸外国と比べて、薬物を使用した経験のある人の比率が相当に低く、一般人口における薬物汚染の程度が小さいということが指摘できる。」
第7編/第2章/第2節
「中枢神経抑制薬は、中枢神経系に作用して、脳の働きを抑制、阻害又は低下させる化学物質」
第7編/第2章/第2節/1
「オピオイドは、・・・鎮痛や多幸感を引き起こす物質であり、けし芥子に由来するモルヒネ、コデイン等のあへんアルカロイド(オピエート)  及び  フェンタニル等の合成されたオピエート類似物質のほか、  エンドルフィン等の体内で合成される化合物がある。
drug05-03.jpg けし芥子の液汁を凝固させた生あへん【液汁を自然に凝固させたもので、黒褐色で特殊な臭気(アンモニア臭)と苦みがある】や、これを加工して得られるあへん煙は、モルヒネやコデインを含有し、これらと同様の作用と毒性を有する。

 モルヒネは、鎮痛・鎮咳(がい)・麻酔作用があり、がんの疼(とう)痛緩和等に使われる。
img1.gif【モルヒネ(英 morphine、)は強力な鎮痛作用を持ち、重要な処方箋医薬品。とくに持続する疼痛である鈍痛に効果が高く、一般的な鎮痛薬が効きにくい内臓痛をはじめ、各種がん性疼痛や手術後の術後痛にも適応する。有効限界がないのも特徴で、より強い痛みに対しては用量を増やすことによる対応が可能である。毒としてみた場合、数量にすると、ヒトに対し6-25gであり、数分から2時間程度で死亡する。
 1872明治5年に、「モルヒネを投与された患者がこの薬品を絶たれたときに見せる、モルヒネへの激しい欲求と錯乱状態について報告」があり、「モルヒネ中毒」と言われるようになった。
 約70年前の1804年、ドイツの薬剤師フリードリヒ・ゼルチュルナーにより生アヘンから分離される。ケシの花に囲まれて眠るという夢の神モルペウス (Morpheus) にちなんでモルフィウム (morphium) と名づける。1805年には鎮静催眠薬として医学に導入され、エーテルやクロロホルムの後継に期待された。
 その後に1853年の皮下注射針の開発で、モルヒネは普及。鎮痛のために用いられ、また、アヘンやアルコールの中毒(依存症)の治療として用いられた。
 アメリカ合衆国の南北戦争・1861~1865 で、モルヒネは広く使用され、モルヒネ依存症・軍人病は40万人を超えた。南北戦争後には帰還兵向けにモルヒネが通信販売された。
また普仏戦争1870~1871において、同様のことがヨーロッパ・西欧で起こった。ベトナム戦争1960~1975に従軍した米軍兵士の多くがヘロイン中毒になっている。
モルヒネの依存症を克服する目的で、モルヒネを原料とするヘロインが1898年に発売された。】
続く

タグ:阿片
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阿片・・戦前の大日本帝国期は年50トンを越えていたが、現日本国は年産数キログラム [視座をホモサピエンス]

現在、アヘンなど麻薬は国際的に国際麻薬統制委員会 ;INCB によって管理されている。その枠組みは1961年に締結された麻薬単一条約Single Convention on Narcotic Drugs(発効は1964年)で決められた。この条約の第23条(Article 23)により、アヘン生産国は収穫後速やかにアヘンを当該政府機関が所持、保管あるいは販売、輸出業務に対して責任を負わねばならないことになった。麻薬単一条約はそれまで各国が個別に締結していた国際条約、協定を一つにまとめ、麻薬管理を一元化して行う意志を表明したものである。現在の世界最大の合法アヘン生産国はイギリスによる植民地統治のころからの歴史的大生産地インドであり、今日ではインド産の生アヘンだけが世界市場で合法的に取引されている。

国際麻薬統制委員会 (International Narcotic Control Board; INCB 1958年設立)


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その生産は気候の影響による収穫量の変動のほか、世界需要に合わせた適正な繰り越しストック(在庫)を維持するため、栽培ライセンスの発行を調節する。量は1999年971トン、2000年1,302トン、2001年726トン、2002年820トンと年によってかなりの変動がある(→Opium Trading in India, 2003による)。これは1998年に在庫が払底したのに伴うものであった。インドはINCB認定の唯一の生アヘン生産国であり、毎年の総生産を1200トン、うち870トンを輸出、130トンを国内消費、残りを需給調整用の在庫とするようINCBより求められている(→Opium Trading in India, 2003による)
中国のアヘン生産は1993年の統計では14トンとごくわずかであり、全て国内消費に当てられ世界市場では取引されていない。
わが国のアヘン生産は戦前の大日本帝国期は年50トンを越えていたが、現日本国は年産数キログラムにすぎず、試験栽培あるいは栽培技術の継承の域を出ないレベルである。
北朝鮮についてはその実体は不明で、近年、外貨を得るためブラックマーケットでアヘンあるいはヘロインを売りさばいているのではないかとの疑惑が報道されている。



タグ:阿片
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戦争と日本阿片史―阿片王二反長音蔵の生涯 (1977年) [視座をホモサピエンス]

61-QzbJLfMpL.jpg戦争と日本阿片史―阿片王二反長音蔵の生涯 
センソウ ト ニホン アヘンシ
: アヘンオウ ニタンオサ オトゾウ ノ ショウガイ
著者  二反長半  ニタン ハン
出版社 すばる書房
刊行年 1977昭和52年8月
サイズ 16x22cm  222p
49大学図書館収蔵
日清戦争で日本は台湾を領有したが、台湾島民の吸飲阿片を輸入する金額が莫大で、国費の海外流出が国の経済にまで影響していると新聞で知った音蔵は、上京して日本内地でのケシ栽培阿片製造の必要を建白、それが当時の後藤新平衛生局長によって試作認可された。音蔵は現在の大阪府茨木市にケシ畑を作り、栽培法、採取法、製造法を改善し、回りの農村を回ってケシ栽培を促し作付け面積を増やし、5月になると大阪平野がケシの花の白でぬりつぶされ初夏に雪が降り積もったように見えたという。
音蔵自身は土百姓と呼ばれることを喜び「わいは政治なんちゅうむつかしいことはわからん。やが、国のため人のためになるんやったら、どんなことでもやるんや」と当時の典型的明治青年だった。栽培地は日本内地に留まらず、朝鮮から満州へと広がり、音蔵は昭和9年、13年、18年の3回にわたって満州国から招聘され広範なケシ栽培阿片製造指導に出かけた。しかし阿片栽培は世界から批判を浴び、目立たぬように奥地へやられ、ついには万里の長城を越えて中国熱河省、内蒙古にまで伸びて行った。音蔵は蒙彊自治政府から招かれ、老体ながら国へのご奉公と喜んで蒙古の砂漠地帯まで指導に出かけた。
音蔵は製造された阿片が必ずしも医療や阿片中毒者の撲滅などに正当に使用されるわけではないことは知っていたが、良質で収穫量の多い阿片を栽培製造することがお国のためになると信じて駆け回った。蓄財して私腹を肥やすどころか、指導に私財を投げ打ったために終戦時には自らの田畑、山林は驚くほど減っていた。米軍による戦犯の取り調べも厳しかったが、結局何の罪も着なかった。音蔵は昭和25年76歳で亡くなったが、悔いのない人生ではなかったろうか。
音蔵の一代記は、この本の価値の1/3だ。別の1/3は、一次資料に基づく、日本の阿片闇商売の実態の記述である。著者は、大陸浪人と思しき「祇園坊」と名乗る者の執筆した書簡を入手していた。祇園坊は大正年間に阿片密売に携わっていたが、日本の阿片密売のボスに中国大陸における阿片流通の実態を書き送っていたのだ。
 それによると、日本陸軍が阿片密売のうまみを知ったのは、第一次世界大戦で青島を攻略・占領した時だった。【1914年11月~】勝利と同時に陸軍は現地の阿片流通ルートも掌握し、1922年に撤兵するまで阿片王・里見甫(さとみ・はじめ、1896~1965)などを介した、阿片を使った軍部の裏金作りは、かなりの裏金(30万円とも100万円とも)を作ったのだという。なお、撤兵にあたって裏金は協力する中国人の名義で青島周辺の不動産に変換されて塩漬け状態になり、15年後の1937年に始まった日華事変に際して、軍費を充当するため換金されたとのことだ。
 祇園坊書簡に基づく本書の記述は詳細である。大正年間の阿片の闇市場における価格まで出てくる。また、現地の阿片流通には軍を現地除隊した日本人も現地側エージェントとして関わっているともある。軍務経験がある民間人は、軍にコネがあると同時に、事が露見した場合にはシッポ切りのシッポともなる。日本の公的機関が継続的に、闇の阿片流通に手を出していたことは間違いないだろう。
 ただし、祇園坊が観察した時期の青島における阿片の取扱量は、英、仏、露、米、日の順番だったそうで、欧米のあこぎっぷりもなかなかのものである。
 祇園坊書簡には、天津における阿片流通も書いてあって、そこには「星製薬のモルヒネが最上級品として取り引きされている」とある。これは、星新一が『人民は弱し 官吏は強し』で描いた星製薬のモルヒネビジネスが、必ずしもきれいごとのみではなかったことの傍証と言えるのではなかろうか。
書の価値の最後の1/3は、音蔵と星一の関係についてである。
 日本は薬用モルヒネの供給をドイツに頼っていたが、第一次世界大戦勃発でモルヒネが入らなくなる。かねてから後藤新平と懇意だった星一は台湾阿片に目を付け、後藤のバックアップを受けてモルヒネの精製に成功する。日本の薬用モルヒネは一手に星製薬が引き受けることとなり、星製薬は大きく成長する。さらに星は、モルヒネ原料の阿片ケシの国産化を画策し、その過程で星と音蔵は知り合った。星は阿片ケシ栽培にいそしむ音蔵を激賞し、鼓舞する。
 やがて、後藤・星のラインはモルヒネ利権を握っていたが故に、後藤の政敵であった加藤高明(1860~1926)、そして加藤と結びついた第一製薬・三共製薬、さらには星と不仲であった内務省からの激烈な攻撃にさらされることになる。

タグ:阿片
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近代中国におけるアヘン・麻薬問題と日本居留民 - 小林元裕 ② ー2020 [視座をホモサピエンス]


東海大学紀要文化社会学部 第 3 号(2020 年 3 月)


3.近代中国のアヘン・麻薬問題

周知のとおり、近代中国におけるアヘン貿易とそれが引き起こした問題(「アヘン禍」)はイギリスとの間に戦われた2度のアヘン戦争、すなわち、1840~42年のアヘン戦争、そして1858~60年のアロー戦争を契機に、中国に大きく広がっていきました。
 アロー戦争の結果、清朝は天津条約を結んでアヘンの合法化に初めて踏み切ります。アヘンによってもたらされる様々な厄災は実は2度のアヘン戦争から始まるといっても過言ではありません。
 そして、その後、イギリスでの人権意識の高まりと自由貿易の進展によって、イギリスが中国とのアヘン貿易を徐々に縮小していったのに対し、イギリスに代わって歴史の舞台に登場したのが実は日本【大日本帝国】でした。
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中国で展開された列強による利権獲得競争に遅れて登場した日本【大日本帝国】は、イギリスの後を追うようにアヘン・麻薬の販売に手を染めていきました。
 この【帝国】日本国家によるアヘン・麻薬政策とその販売、また日本の植民地下にあった朝鮮人らを含む日本居留民によるアヘン・麻薬密売は上記したように東京裁判で究明され糾弾された日本の犯罪行為の一つでした。 

 阿片政策 

日本の近代、特に日中戦争以後における阿片、モルヒネ、コカインなど麻薬に関する政策。その立案、生産、配給、管理等については、日本国内では内務省、厚生省が、国外では外務省、興亜院、大東亜省及び植民地官庁が管掌、占領地では日本軍が実質的に遂行した。 

 明治維新後、日本は国内における阿片の製造、販売、使用を医療目的以外で厳重に取締り、阿片は大きな問題とならなかった。

しかし日清戦争以降、植民地として台湾・朝鮮を、租借地として関東州を、さらに上海、天津等の租界や山東半島を獲得すると日本は阿片問題に直面することになった。台湾と大連では阿片の漸禁政策を採用して専売制度を導入、朝鮮では阿片原料の罌粟を栽培した。 

 第一次世界大戦によって医療用モルヒネの輸入が途絶すると日本の製薬会社は1915年にモルヒネを国産化、大阪府の農民である二反長音蔵が罌粟の栽培に尽力した。日本は12年から31年にかけ阿片・麻薬の生産、輸出入、販売の制限に関する四つの国際条約に調印、批准していたが、大連、天津、上海などの地で多くの日本人、朝鮮人が日本産モルヒネの密売に従事、日本の阿片取締りに対する非協力的な態度が国際連盟や国際会議で非難された。 

 中国では南京国民政府が28年から本格的な禁煙政策に取り組んだが、日本は32年満洲国を樹立して罌粟の生産と専売を開始、37年日中戦争が勃発すると内蒙古に蒙疆政権を樹立して阿片を生産、他地域・国に移輸出させた

日本軍は民間人の里見甫を起用して上海に華中宏済善堂を設立、当初は三井物産が密輸入したイラン産阿片を、39年末からは蒙疆阿片を中国人商人の阿片ネットワークを利用して販売させた。

その巨額な収益は汪兆銘政権の樹立工作やその財源、また日本軍の資金源として使用された。

太平洋戦争勃発後、日本は占領したシンガポールでも阿片を精製、販売した。急激なインフレが進む占領地において阿片は物資購入のための通貨の役割を果たした

43年南京その他の都市で学生らの反阿片デモが発生すると里見は華中宏済善堂を辞職、45年敗戦によって国策としての日本の阿片政策は終わりを告げた。

46年東京裁判は日本の阿片政策の犯罪性を追及、事実関係の一端を明らかにした。 


4.近代中国における日本居留民  へ続く

タグ:阿片
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近代中国におけるアヘン・麻薬問題と日本居留民 - 小林元裕 ① ー2020 [視座をホモサピエンス]

東海大学紀要文化社会学部 第 3 号(2020 年 3 月)
1.はじめに-現在までの研究経緯
【 東海大学の 教員スタッフ紹介webより
中国とアヘンの関わりは、実はアヘン戦争が終了してからが長いのです。アヘンは麻薬の一種であり、その取引であるアヘン貿易は当初から国際社会で問題視され、中国に戦争を仕掛けたイギリスはこの貿易から徐々に手を引いていきます。このイギリスに替わってアヘン貿易の主役として登場するのが日本でした。日本は台湾、朝鮮という植民地を巻き込んでアヘンの生産と販売に突き進んでいきます。
98-ダウンロード.jpg中国の南京国民政府はアヘンの取り締まりに強い態度で臨みますが、1937年に始まった日中戦争(抗日戦争)はその取り組みを不可能にし、アヘンの惨禍が中国に広まります。中国がアヘンと完全に決別するのは中華人民共和国の成立を待たねばなりませんでした。私は以上の問題を中国と日本を中心に東アジア全体から見直してみたいと思います。
私のもう一つの研究テーマは中国と東京裁判の関係です。私は東京裁判を中国の視点から見直し、国民政府が裁判にどう取り組み、他の参加国や裁判の判決にどのような影響を及ぼしたのかを解明したいと思っています。】
2.中国と東京裁判 
 東京裁判は連合国であるアメリカ、ソ連、中国、イギリス、フランス、オーストラリア、カナダ、オランダとインド、フィリピンの10か国によって構成されました。この時点でインドとフィリピンはまだそれぞれイギリス、アメリカの植民地でした。ナチスドイツを裁いたニュルンベルク裁判が、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4か国によって構成されたのに比べ、東京裁判は倍以上の国家によって担われたわけです。東京裁判ではオーストラリアのウェッブが裁判長を務め、法廷言語として英語と日本語の2つが使用されました。裁判の速記録がこの2か国語で記されたため、東京裁判に関する研究はこの2言語による研究が中心となり、必然的に日本とアメリカ2国に関する分析が中心に行われてきたのです。そのためロシア語、中国語、フランス語、オランダ語を使用したソ連、中国、フランス、オランダ等との関係からみた東京裁判研究は少数ながら存在しますが、いまだに十分とはいえない状況にあります。 
 
東京裁判と中国の関わりについて述べれば、2011年の上海交通大学東京裁判研究センター(東京審判研究中心)の設立でした。同センターは日本やアメリカだけでなく、世界各国で出版されている東京裁判関係の文献を収集、翻訳して出版し、さらには収集した公文書のコピーを有料でWEB上に公開しています。資料の収集と公開という面で日本は中国に完全に後塵を拝している状況です。
東京裁判において中国が日本の何を裁こうとしたのかについては、第二次世界大戦が最終局面に入ると、連合国は敵国であるドイツと日本を戦争終了後にどう裁くかについて議論を始めます。1944年11月、連合国は中国の重慶に極東太平洋小委員会を設立して、日本の戦争犯罪調査や戦犯容疑者リストの作成にとりかかりました。この段階で中国は、日本が中国で行なった戦争犯罪として、①日本軍の毒ガス使用、②日本軍による無防備都市及び非軍事目標への爆撃、③日本軍国主義が中国民衆に実施した各種の暴行行為の3点を考えていたようです。
日本軍は中国軍に対し戦時国際法に違反する毒ガスを戦場で使用しましたし、1937年の開戦以降には上海や、国民政府が臨時首都を置いた重慶に対して空爆を行って非戦闘員を多く殺傷しました。そして、まさしく東京裁判でその事実が明るみにさらされた南京事件のように、日本軍は中国の各地で一般人や捕虜を殺傷したのです。つまり、中国としては、戦時国際法に照らし日本の犯罪性が明らかで、なおかつ訴追が可能な点に絞って日本を裁こうとしたと考えられるのです。
 
ところが、第二次世界大戦が終結して、実際に東京裁判の準備が進められる段階になると、この方針は大きく変わります。開廷の準備を進めるため東京に赴いた向哲濬検察官は、東京裁判の検察機関として設置された国際検察局(IPS)からの要請として、中国本国に3件の事実確認とその証拠資料を送るよう要求します。その3件とは、①1931年の満洲事変及び1937年の盧溝橋事件、②日中戦争期の松井石根将軍と畑俊六将軍指揮下の日本軍による暴行及びその他の国際法に違反する行為、③アヘン問題についてです。
東京裁判では、日本軍の毒ガス使用、そして都市に対する無差別爆撃については法廷で取り上げられなかったのです。これは明らかにアメリカの戦後方針から生み出された政策といえます。すなわち、毒ガス戦に関しては、東京裁判の法廷で取り上げることで化学兵器の情報がソ連に渡るのを防ぎ、また、都市無差別爆撃に関しては、アメリカ自らの戦争犯罪、いうまでもなく、東京大空襲や広島・長崎に対する原爆投下に問題が及ぶのを防ぐ目的があったと考えられるのです。このように東京裁判は、中国が裁こうとしていた日本軍の毒ガス使用と都市無差別爆撃について戦争犯罪を問えないまま終わります。しかし、その一方で、当初予定していなかった、日本のアヘン・麻薬密売による犯罪事実を白日の下にさらすことになるのです。 
3.近代中国のアヘン・麻薬問題  続く

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暦ーー [視座をホモサピエンス]

西暦395年、ローマ帝国の東西分裂に伴い、キリスト教会も東西に分裂、両者は次第に対立を深め、1054年、ローマ教皇レオ9世とコンスタンティノープル総主教のケルラリオスが相互に破門宣告をし、分裂しました。(注:1965年に和解)
東西の両教会は、1年が365.25日の暦を使った。この暦は、「賽は投げられた」、「来た、見た、勝った」 、「ブルータス、お前もか」 などの引用句で知られるガイウス・ユリウス・カエサルがローマ暦(太陰暦)を改正し、太陽暦を制定布告した。紀元前45年から実施。彼の名が冠されユリウス暦という。1年の長さが365.25日ということは4年に1度の頻度で、1日(0.25×4=1)が余るためそのずれを調整する目的で年365+1日のうるう年が設けられます。(ユリウス暦は400年間で100回のうるう年があります)
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ただ実際には地球が太陽の周りを1周する時間は、365.2422日で、ユリウス暦の365.25日でも誤差があります。カエサルの時代には春分は3月23日ごろであったのに、16世紀には、誤差がつもって、3月11日ごろになってしまった。春分はキリスト教国では最大の祝日の復活祭の日取りの基礎になるものであるから、その月日が移動しないようにしたいということと、3月20日ころにしたいということから、西方教会の第226代ローマ教皇、カトリックのグレゴリオ13世が、委員会を設立して改良を検討させた。この委員会の研究を受けて、年365.2425日とする新暦に1582年に切り替え勧告する勅書「インテル・グラウィッシマス(英語版)(最も重大なる懸念の内に)」出した。まずカトリックの国であるイタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、ポーランド、ベルギーでは同年から実施され、ユリウス暦の1582年10月4日㈭の翌日が10日足され10月15日(金)に改められた。「グレゴリオ暦」という。数年内にはハンガリー、神聖ローマ帝国内のカトリック諸邦で導入。
ちなみに、同1852年のユリウス暦6月21日㈭・天正10年6月2日 本能寺の変があり、グレゴリオ暦11月10日㈬・天正10年10月15日に 秀吉が織田信長の葬儀を執行している。
プロテスタントは、なかなかグレゴリオ暦を認めなかった。ルターが、改暦は世俗の権威に委ねるべきであり、教会が関与すべきでないと公言していた。
 オーストリア及び国内に宗教的対立があったドイツやネーデルラントでは,カトリックの州で1583年頃,プロテスタントの州では1700~1701年にかけて導入。アングリカンチャーチ・英国国教会のイギリス及びその植民地では1752年,プロテスタントの米国は1783年。
日本は、1872明治5年の天保暦(てんぽうれき)12月3日を、1873明治6年(グレゴリオ暦)1月1日、と改暦した。《地球が太陽の周りを1周する時間は365.2422日、天保暦は1年365.24223日でグレゴリオ暦
365.2425日だ。》
中国は、辛亥革命で中華民国成立後に1912年に改暦。
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東方教会(正教会オルソドクス)は、ローマ帝国以来の伝統のユリウス暦を用いる。ユリウス暦はグレゴリオ暦より、18世紀で11日、19世紀で12日、20世紀で13日日付が遅れる。ロシア正教会が力を持つロシアでは、ピョートル大帝の治世の1699年から、ロマノフ王朝のロシアではもっぱらユリウス暦が用いられてきた。ロマノフ王朝が倒れたロシア革命後の1918年のことで、1月31日の翌日を2月14日とした。
ギリシア正教会のギリシアとルーマニア正教会のルーマニアは1924年。
だから、ロシア正教会、セルビア正教会など、ユリウス暦を使う正教会の降誕祭・クリスマスは、1月7日(ユリウス暦での12月25日)である
イスラム教が優勢なトルコは、1919~23年のケマル=アタチュルクのトルコ革命のときに、世俗主義政策の一環としてイスラーム暦を廃止して太陽暦(グレゴリウス暦)を1927年に採用した。
現在でもイスラーム世界ではイスラーム暦が用いられており、1年が354日で、完全な太陰暦であるので実際の季節とずれてしまう。、特に農業では不便なことが多い。そこでイスラーム世界では暦を変更することはせず、実際にはヒジュラ暦とグレゴリオ暦の2つのカレンダーを併用している。


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親切の人類史―ヒトはいかにして利他の心を獲得したか – 2022/12/20 [視座をホモサピエンス]

81NrLpIc.jpg親切の人類史―ヒトはいかにして利他の心を獲得したか 
著者 マイケル・E・マカロー (Michael E. McCullough)
翻訳 的場知之 (まとば・ともゆき)
出版社 ‏ : ‎ みすず書房
発売日 ‏ : ‎ 2022/12/20
単行本 ‏ : ‎ 464ページ
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4622095675


人間の「利他の心」の存在はどのように説明できるだろう? 
「利他行動」は生物学の難問の一つだ。ヒトをはじめ、他個体を利する行動をとる動物は実際に存在する。血縁や地域を超えた「完全な赤の他人」にまで援助の手を差し伸べる動物は人間以外にいない.
人間の利他性は、哲学、歴史学、文化人類学、社会科学、生物学などを中心に、さまざまな分野の専門家の興味を引く不思議なテーマだ。一筋縄ではいかない
 他者を思いやる寛大な個体の遺伝子は、狡猾な個体に出し抜かれて繁殖機会を奪われ、淘汰されてしまうのでは? 生物学者たちはこのことにおおいに悩み、利他行動を説明できる理論を求めて奮闘してきた。
利他性をテーマとする書籍の多くが、生物学的考察と人文学的考察とのどちらかに軸足を置いている。
人間の利他の心は、生物学だけで完全に説明することはできない。社会福祉制度や慈善活動などの人文学的考察だけで完全に説明することはできない。進化生物学と慈善の歴史という観点から挑みかかる。
著者によれば、一万年の人類史における「七つの大いなる苦難」を、人類がどう解決してきたかが説明のカギだという。
目次
第1章 思いやりの黄金時代  001頁
第2章 アダム・スミスの小指  015
第3章 進化の重力  043
第4章 すべては相対的(リラティブ)だ  061
第5章 ミスター・スポックへ、愛を込めて  085
第6章 大いなる報酬  123
第7章 孤児の時代  155
第8章 思いやりの時代  169
第9章 予防の時代  189
第10章 第一次貧困啓蒙時代  213
第11章 人道主義のビッグバン 243  
第12章 第二次貧困啓蒙時代   283
第13章 成果(インパクト)の時代  315
第14章 理性が導き出す思いやりの理由 343
謝辞
原注
参考文献
第1章 より
見知らめ他者への思いやりに関して、ヒトの右に出る者はいない。チンパンジーは、わたしたちと同じように親類縁者をすすんで助けるが、溺れる他個体を救うために増水した川に飛び込んだり、タンザ二アの恵まれないチンパンジー家庭に食糧を送ったり、チンパンジー介護施設で週末のポランテイアをしたりする個体は、一頭たりともいない。
科学的根拠に照らして、わたしたちの祖先は狂信的といっていいほどのよそもの嫌いで、困窮する他人にきれいな水や温かい食事、一夜を過ごせる場所を与えるどころか、槍と弓を向けてきた。
現代人が示す、他者に対する態度が、祖先とかけ離れているのはなぜだろう?完全な赤の他人の福祉への配慮は、動物界のどこにも似たものが見つからないどころか、ヒトという種の歴史の大半を通じて、影も形もなかった。正真正銘、一度きりのできごとなのだ。したがって、そこには特別な説明が必要になる。
ヒトがもって生まれた能力、すなわちわたしたちの特徴である信念や欲求、動機や情動、認知能力を無視し、それらが歴史上の数々の転機において大規模に発露した結果として、いまのわたしたちが誇る、他者を助ける傾向が形成されたという視点 
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原本
前半は進化的な視点から包括適応度理論(血縁淘汰),マルチレベル淘汰,直接互恵,(社会淘汰を含む)間接互恵からどこまで説明できるのかを扱い,後半では共感のサークルの拡大が理性の役割とともに歴史的に語られている。
国家による福祉の拡大を大きなテーマとして理性がからむモラルサークルの歴史を語る後半部分。
.古代の王は弱者救済が王権の強化に働く可能性に気づき,
さらに近代にはそれが社会の健全性や貿易を通じた国家の繁栄に役立つという認識につながる.
そしてさらに利他と福祉は自分と他者の立場の交換性ヘの気づきと自己の誠実性という意味のモラルの問題になっていく.その歴史が「理性こそが寛容と利他主義の価値を見つけてきた」という物語として語られている.

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