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近代中国におけるアヘン・麻薬問題と日本居留民 - 小林元裕 ② ー2020 [視座をホモサピエンス]


東海大学紀要文化社会学部 第 3 号(2020 年 3 月)


3.近代中国のアヘン・麻薬問題

周知のとおり、近代中国におけるアヘン貿易とそれが引き起こした問題(「アヘン禍」)はイギリスとの間に戦われた2度のアヘン戦争、すなわち、1840~42年のアヘン戦争、そして1858~60年のアロー戦争を契機に、中国に大きく広がっていきました。
 アロー戦争の結果、清朝は天津条約を結んでアヘンの合法化に初めて踏み切ります。アヘンによってもたらされる様々な厄災は実は2度のアヘン戦争から始まるといっても過言ではありません。
 そして、その後、イギリスでの人権意識の高まりと自由貿易の進展によって、イギリスが中国とのアヘン貿易を徐々に縮小していったのに対し、イギリスに代わって歴史の舞台に登場したのが実は日本【大日本帝国】でした。
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中国で展開された列強による利権獲得競争に遅れて登場した日本【大日本帝国】は、イギリスの後を追うようにアヘン・麻薬の販売に手を染めていきました。
 この【帝国】日本国家によるアヘン・麻薬政策とその販売、また日本の植民地下にあった朝鮮人らを含む日本居留民によるアヘン・麻薬密売は上記したように東京裁判で究明され糾弾された日本の犯罪行為の一つでした。 

 阿片政策 

日本の近代、特に日中戦争以後における阿片、モルヒネ、コカインなど麻薬に関する政策。その立案、生産、配給、管理等については、日本国内では内務省、厚生省が、国外では外務省、興亜院、大東亜省及び植民地官庁が管掌、占領地では日本軍が実質的に遂行した。 

 明治維新後、日本は国内における阿片の製造、販売、使用を医療目的以外で厳重に取締り、阿片は大きな問題とならなかった。

しかし日清戦争以降、植民地として台湾・朝鮮を、租借地として関東州を、さらに上海、天津等の租界や山東半島を獲得すると日本は阿片問題に直面することになった。台湾と大連では阿片の漸禁政策を採用して専売制度を導入、朝鮮では阿片原料の罌粟を栽培した。 

 第一次世界大戦によって医療用モルヒネの輸入が途絶すると日本の製薬会社は1915年にモルヒネを国産化、大阪府の農民である二反長音蔵が罌粟の栽培に尽力した。日本は12年から31年にかけ阿片・麻薬の生産、輸出入、販売の制限に関する四つの国際条約に調印、批准していたが、大連、天津、上海などの地で多くの日本人、朝鮮人が日本産モルヒネの密売に従事、日本の阿片取締りに対する非協力的な態度が国際連盟や国際会議で非難された。 

 中国では南京国民政府が28年から本格的な禁煙政策に取り組んだが、日本は32年満洲国を樹立して罌粟の生産と専売を開始、37年日中戦争が勃発すると内蒙古に蒙疆政権を樹立して阿片を生産、他地域・国に移輸出させた

日本軍は民間人の里見甫を起用して上海に華中宏済善堂を設立、当初は三井物産が密輸入したイラン産阿片を、39年末からは蒙疆阿片を中国人商人の阿片ネットワークを利用して販売させた。

その巨額な収益は汪兆銘政権の樹立工作やその財源、また日本軍の資金源として使用された。

太平洋戦争勃発後、日本は占領したシンガポールでも阿片を精製、販売した。急激なインフレが進む占領地において阿片は物資購入のための通貨の役割を果たした

43年南京その他の都市で学生らの反阿片デモが発生すると里見は華中宏済善堂を辞職、45年敗戦によって国策としての日本の阿片政策は終わりを告げた。

46年東京裁判は日本の阿片政策の犯罪性を追及、事実関係の一端を明らかにした。 


4.近代中国における日本居留民  へ続く

タグ:阿片
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