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地球的世界の成立ー覚え書㈠ [中世・国内]

地球的世界の成立の覚え書㈠
7 「日本型小帝国」の定着
中華秩序の再編と日本型華夷秩序の自立
将軍権力の安定と平和維持体制の定着
 1633~51・家光、1651~80・家綱、1680~1709・綱吉
 特徴㈠将軍権力の安定と平和維持体制の定着
㈡ 百姓成立の体制、百姓が飢餓と戦争から解放され、安定して生計を維持する
㈢ 日本型小帝国・日本型華夷秩序の定着
近世的再生産構造の成立
1643・土民仕置条々 「田畑永代売買禁止令」(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)は、寛永20年(1643年)3月に江戸幕府によって出された法令の総称。田畠永代売買禁止令とも書く。代官宛に出された17か条からなる「土民仕置条々」のうち、田畑の売買(永代売)を禁止する3条(13条)を指す。前年に最大規模化した寛永の大飢饉を契機に幕府は本格的な農政へ乗り出し、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的で発布されたとされている。明治5年(1872年)に廃止されるまで名目上の効力を持った。主に天領に向けて発布されたと考えられているが、質流れなどで実際上は、江戸時代を通じて土地の売買が行われており、幕府においても江戸時代中期以後に入ると法令違反の訴えが無い限りは同法違反の取締りを行うことはなかったという。
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1620年代から1640年代  寺請け制度、一般民衆が仏教徒になる。寺檀関係
日本人キリスト教徒のキリスト教が祖先崇拝を認めない「深い悲しみ」
中・近世の日本人にとっては死後の生活をふくめて一つのライフサイクル・人生だった、大藤修
【】 典礼問題 (17世紀〜18世紀) 明末から清初に中国に来航したイエズス会宣教師は、積極的に西洋学術などを紹介しながらおこなった布教活動の一手段として、中国の伝統文化を重んじ自ら儒学者の服装を着用し、孔子の崇拝や祖先の祭祀などの伝統的儀礼(典礼)を容認した。その方法が功を奏し、イエズス会は中国における伝道を一手に独占していたが、後から中国布教を目指したフランチェスコ会、ドミニコ会などの修道会は、イエズス会のそのような布教方法は神を冒涜することで間違っているとローマ教皇に訴えた。この問題が「典礼問題」であり、教皇庁内でも論争となり、1704年、ローマ教皇クレメンス11世はイエズス会の布教方法を否定するという結論を出した。これに対し清の康煕帝(こうきてい第4代皇帝在位1661~1722年)は典礼を認めるイエズス会でなければ中国での布教を認めない、として典礼を拒否する宣教師の入国を禁止した。次いで雍正帝(ようせいてい第5代皇帝在位1722~35年)は全面的なキリスト教の布教禁止に至る(1724年)。
乾隆帝(けんりゅうてい、清の第6代皇帝在位1735~1795年)祖父の康煕帝の61年以上になってはいけないということから95年に退位し、さらに4年間上皇として政治にあたった。
満州人・漢人・モンゴル人(蒙)・ウイグル人(回)・チベット人(蔵)という、多民族国家としての現在の中国の「五族協和」という体制ができあがった 【】
荒野泰典
この時期のキリスト教問題は、日本型の典礼問題
イエズス会は現地の身分制・風俗・習慣など現地の社会のあり方に適応しながら布教を進める適応主義を採っていた。それは、風俗・習慣など表面的で、先祖崇拝など宗教のあり方そのものには、及ばず、日本人キリスト教徒の「深い悲しみ」まで、救う者でなかった。
続く


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