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1987年 12月 原告紹介・鹿瀬町 元昭電社員 新潟水俣病とたたかう 共闘会議 [新潟水俣病共闘会議]

1987年12月20日付 28号

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原告訪問⑦
水俣病だと言ったんだけど
江花豊栄さん(東蒲原郡鹿瀬町・六〇才)
”(昭和)電工の町”といわれた鹿瀬は、いま過疎化と高齢化に喘いでいる。電工が最も栄えたころ一万二千いた町入口は現在三千六百人、うち四人に一人が六十五才以上だ。六日、新町長に元電工労組委員長の大江富士男氏が選ばれた。初雪がまだ道路に残る朝、元昭電社員の江花さんを訪ねた。

-昭電ではどんな仕事を?
 「入った時は昭和合成(昭和三十二年昭電に吸収合併)でね。アセトアルデヒドを蒸留するのに使う冷却水を、作って送る冷凍機の運転係。でも冬になれば水が冷たくなるから、他の所へ応援にいくわけ。三十五年頃からかな、本格的に硫酸水銀を製造する現場に回されたのは」

-当時の現場の状況は?
 「ひどいですよ。まっ黄色い煙がもうもうとして。マスクなんかきヵねぇしさ、涙が出るやら。歯がなくなったとか、手がきかなくなったとか、具合の悪い人がたくさんいたね。私も頭が痛くなったり、入退院をくり返してね」

-昭和四十二年に中央研究所にいったのは?
 「ここにいると夜勤があるでしょ。それがものすごく苦痛でね。何とか夜勤がなければと思って、それで行ったわけ。でも、頭の痛いのは昼夜関係ないんだよね」
 「帰ってきたのは父親が倒れてね。私も頼んだけど、地区の民生委員が本社へ、どうにもならないから帰してもらいたいと陳情してね」

-それからはずっとここ?
 「いや、群馬や長野の会社へ応援さ。でも行けば必ずといっていいほど倒れてた。『私は水俣病で苦しんでいるのだから、応援に出るの、ちょっと休ませてくれ』と会社に言ったんだけどね」

-電工に勤めた人で残った人はどのくらい?
 「あんまりいねぇな。転勤や出向で、ほとんどが外へ出ちまったからなあ」

-ーところで鹿瀬に繁華街はないの?
 「今は従業員もいなくなったから店もたたんだけど。電工の正門の前に病院(鹿瀬診療所)があるよね。その裏側に社宅がずーっと両脇にあったもんだがね。もとは駅から電工の前の道路まで、道のきわに出店が毎日出てた。呉服屋、衣類、げた屋、魚屋、時計屋など新潟や新津、上(福島県)からも売りに来てた。石灰窒素が売れたころが一番盛りだったかね。今はみるかげもないけど」

--新町長に望むことは?
 「とにかく若い人を地元に残すべく何か事業を考えてもらいたいと話しているんですよ。ただ、こういう被害を起こさぬために、どう企業を指導していかねばならねぇか。大江さんは労働組合の役員もやっていたし、関心のある人だと思うんだ。とにかく住民が安心して生活できるようにね」

 江花さんの話のなかに、企業(資本)の論理が山ほど出てくる。今も化学工業界のトップに君臨する昭電は、この地に一体何を残したのだろうか。町と住民の病弊だけが目につく。

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