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迷えるキリスト者=椿氏を批判する② 公開質問状 昭和57年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

く被害者の救済か、切捨てか 迷えるキリスト者=椿氏を批判するく>②
                                                 高  見     優
(1)は じ め に・・・・・①
(2)患者サイドに立つ (1965年~1973年)・・・・①

(3)立場をかえる(1973年~)
  1973年、有明海、徳山湾のいわゆる「第3・第4水俣病事件」のとき、熊大第2次水俣病研究班(班長、武内忠男 病理学教授)が出した第3水俣病発生の結論を環境庁は、椿氏らを専門委員とする「健康調査分科会」で検討し、熊大の結論を否定してしまったのである。当時は、「水銀パニック」というマスコミの表現がピッタリの状況が日本列島をおおい、国民は魚を敬遠し、魚市場では魚屋さんが自衛の手段として水銀分析装置まで準備し、そのデータの信用度が学者との間で論争となるという事態にまで発展したほどだった。
椿氏らの分科会力瘤大の診断を否定した記者会見での出来事―
「ある記者が『2年間
に及ぶ研究の結果と数分間フィルム(患者の運動機能をみるために撮られたという)を見ただけの判断と、どちらを信用したらよいか』へ質問したところ、椿氏は、『君、失礼じゃないか、答える必要はない!』と机をたたいて激怒、顔面蒼白にしてそっぽを向いてしまう一幕があった。」という報道がある。(雑誌「青と緑」1973年10月号、<不毛の医学論争を排す>)これを引用して、武谷三男氏は次のように述べている。「科学的な問題に対して、いかなる質問をされても科学者は矢礼だと言って怒る理由はないのである。こういうことに対して答える必要がないというのは全く科学的態度とはいえないのであり、やはりちゃんと説明すべきではないか。これは医者の特権意識に基づいている態度である。」(「医療と人間と」4号 1974年1月) 私も、これに賛成である。武谷氏は又、「特権は差別につながる」とも言っている。
 椿氏は、この頃から国の立場(それはそのまま企業の立場につながる)に立つようになる。新潟の認定審査会でも認定基準の見直し、ワクを狭くしていく。新潟県議会(1974年7月23日、公安厚生委員会)で参考人として質問されたとき、氏は「かつて、環境庁の通知がでたとき広く認定した方がよいと言われ、それに影響されて医学的には50%の可能性で病気を診断するが普通のやり方であるのに、それ以下の人も認定してしまった。今思うと、水俣病でない可能性の強い人も認定患者の中にはいる。それは不幸なことだから見直しすることも考えている。」と答弁した。かつて、医学が政治の影響を受けたことがあったが今は純医学的に認定審査を行なっているというのである。(この「純医学的」という言葉によって氏が語っている「科学」と氏の「科学者」としての社会的役割については、昨今の原発安全神話を保障する「科学」「科学者」の問題などに共通する基本的な重要問題があるが、そのことは別の機会にふれたい。)
 当時、阿賀野川流域住民の中には、「補償金で家を建てた」とか「毎日、仕事に通えるくらいの病気で認定された」などと、患者に対して陰で中傷するものがいたが、この椿発言によって、一層露骨にニセ患者」呼ばわりする風潮が生まれた。そして、年々悪化する身体にがまんを重ねていた患者が思い余って申請しようとすると迫害が加えられた。さらには患者同士の正統争いと不信感、申請患者、棄却患者の認定患者への悪口………、本来、同じ被害者同士としていたわり合わなければならないはずの人たちの分裂。新たな差別が始まり折角、裁判にうってまでようやく得た被害者としての市民権もうばわれ、新たな被害者となっていった。 精神的に一、社会的に―。
 一方、椿氏は、この重大な発言のひきおこした惨状を放置し、その頃大学内にも「椿先生は、最近は余り水俣病患者を診なくなった」との批判の声がでてきた。
  1980年には、椿氏は、新潟大学を自ら辞し、東京都立神経病院長となる。しかし、どういうわけか新潟水俣病認定審査会長の戦だけはひきつづきとどまる。医師として治療することは新潟では全く行なえなくなったが、審査会のランクづけ作業のためにだけわざわざ来るという状態が現在まで続いている。
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