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ワクチン開発と戦争犯罪 インドネシア破傷風事件の真相--02 [コロナウイルス]

ワクチン開発と戦争犯罪  インドネシア破傷風事件の真相


1944年8月、ジャカルタのロームシャ収容所で謎の破傷風事件が発生。事件の背景にあった日本軍の謀略とは。

著者 倉沢 愛子 著 , 松村 高夫 著
倉沢愛子(クラサワ アイコ)
1946年生まれ.1979年東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学,2012年博士号取得.1988年コーネル大学Ph.D.取得.現在,慶應義塾大学名誉教授.専門はインドネシア現代史.著書『日本占領下のジャワ農村の変容』(草思社,サントリー学芸賞受賞),『南島に輝く女王 三輪ヒデ――国のない女の一代記』(岩波書店)ほか.
松村高夫(マツムラ タカオ)
1942年生まれ.1969年慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学,1976年ウォーリック大学Ph.D.取得.現在,慶應義塾大学名誉教授,ロンドン王立歴史学会フェロー.専門はイギリス社会史・労働史,日本植民地労働史.著書『大量虐殺の社会史――戦慄の20世紀』(共編著,ミネルヴァ書房),『裁判と歴史学――七三一細菌戦部隊を法廷からみる』(共編著,現代書館)ほか.
岩波書店
刊行日 2023/03/14
ISBN  9784000615853

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はじめに   より
破傷風事件
 日本軍占領下のインドネシアで、かなり無謀なやり方で密かに進められていた破傷風ワクチン開発の治験に際して、「ロームシャ」(後述)と呼ばれた多くのインドネシア人労働者たちが、何も知らされないままにその治験の対象とされ、命を落とした。
しかも日本軍はそれを覆い隠し、それどころかその責任をインドネシア医学界の重鎮に押し付け、彼が、日本軍に対する陰謀を企てたとして処刑してしまったのである。そしてその事件は、戦後の戦争犯罪裁判でも明るみに出されないまま今日に至っている。 
 その痛ましい事件は一九四四年八月、ジャワ島外の作業地への出発までの間、「ロームシャ」を留め置くジャカルタのクレンデルという収容所におて、突然発生した。伝染性のない感染症である破傷風が、こんなに大量の人々の間でいっせいに発症するのは奇異なことであった。
間もなく、この患者たちはその少し前にチフス・コレラ・赤痢の三種混合ワクチン接種を受けていたことが判明し、それとの関連が疑われて、まずその接種を担当した医師や看護人たちが逮捕された。 
 やがて彼らの”自白”をもとに、そこから連鎖的に多数の著名な医師や細菌学の権威たちが逮捕され、数カ月にわたって尋問が行われた。取り調べは長期にわたり、日本軍の推定や解釈も二転三転したが、最終的には、ジャカルタ医科大学教授で、同付属衛生試験場(旧エイクマン研究所)所長のアフマッド・モホタル(Achmad Mochtar )が、日本軍に対しロームシャの徴発に警告を与える意味で、彼らに接種するチフス・コレラ・赤痢の三種混合ワクチンに破傷風菌を混入し、それを部下のスレマン・シレガル(Suleman Siregar)医師に命じて接種させた、という「筋書き」になり、対日陰謀事件として処 理された。 
 二人は軍律会議にかけられ、モホタル博士は死刑判決を受け、終戦を直前に控えた一九四五年七月三日、斬首された。スレマン・シレガル医師は有期刑を受けたが、チピナン刑務所に収監中、獄死した。その他にも憲兵隊での取り調べ中に一人の医師が獄死した。 
日本軍のインドネシア占領とロームシャの徴
 
 被害者となったのは、当時日本軍によってほぼ強制的に徴発された「ロームシャ」と呼ばれる人たちである。事件の詳細に入る前にまず、日本軍のインドネシア占領と、「ロームシャ」とはどういう存在だったのかを概観しよう。
今からおよそ八〇年前の一九四二年三月、日本軍は「西洋の支配から解放し、共に大東亜共栄圏を建設するために」、当時オランダの植民地であったインドネシアへ侵攻し、ここの住民を占領・支配した。一九四一年一二月八日の開戦から三カ月後のことである。それまでに日本軍はすでに英領マレー、シンガポール、米領フィリピンを占領しており、さらにこの後、英領ビルマ(現ミャンマー)も手中に入れる。ナチスの支配下にあって傀儡政権が成立していたフランスの植民地、ベトナム、ラオス、カンボジアへは、すでに「平和的に」日本軍が駐屯していたし、独立国タイは日本と軍事同盟を結んでいたので、この時期日本は、東南アジアのほぼ全域をその勢力範囲に収めていたと言うことができる。 
 インドネシアは三つの地域に分割・統治されたが、そのうちこの事件が起きたジャワ島は、単独で、陸軍第一六軍の支配地域となっていた。日本の占領下では、それまでの支配者であったオランダ人を敵性国人抑留所に入れ、日本人が司法・行政を全面的に掌握した。主要な公共機関や施設はほとんどはじめに日本当局が接収し、その運営にあたった。本書に登場するジャカルタ医科大学、エイクマン研究所(日本名・衛生試験場)、そしてパスツール研究所(日本名・防疫研究所)などもすべてそうであった(2)。 
 統治にあたって日本軍は、軍事施設建設や軍需産業などの労働に従事させるため、ジャワ各地から労働力を徴発し、「ロームシャ」と呼んで活用した(3)。
その多くは村の役人たちから強制されて、あるいは甘い言葉で騙されて参加し、ジャワ島内で一定期間労働に従事する場合もあったが、一部の者は日本が占領する東南アジア各地へ送られて、長期間にわたり飛行場、軍用道路、鉄道、防衛陣地、地下壕などの建設に従事させられた。送られた先はジャングル地帯など環境の悪いところが多く、たとえばタイとビルマをつなぐ泰緬たいめん鉄道の建設にも動員された。その労働条件は過酷で、死者を多数出したうえ、終戦時には現地に取り残されたため故郷に帰れず、タイ、ビルマ、ベトナムなどの国々にその後も住み着くことを余儀なくされた者も多かった。「ロームシャ問題」として戦後補償との関係などで言及されるのは、主としてそのような、ジャワ島外へ派遣された人々で、正確な資料は残っていないが、その数は三〇万人ほどであったと推定されている。 
 ロームシャ徴発がインドネシア社会にいかに影響を与えたかは、インドネシアにおいて、しばしば 「ロームシャ」が日本軍政期の歴史を物語る象徴的な事象として、歴史博物館のパノラマで描かれていることからも推測される。また、筆者(倉沢)が一九八〇年代初めにジャワの農村で実施した聞き取り調査に際して、古老たちに、日本軍政期の最もひどい思い出は何かと尋ねると、多くが「ロームシャ」と答えた。ちなみに彼らは日本語のまま「ロームシャ」と呼ばれ、それがそのままインドネシア語化されて独立後のインドネシアの歴史書等でも「romusha」と記されている。そのため、本書においてはそのままカタカナ書きで使用する。 
 これらのロームシャは、ジャワ各地の農村から、行政機関や労務協会などによって徴発され、州ごとに集められてジャカルタへ移送され、軍政監部の「島外供出労務者処理班(以下、労務処理班と略す)」が管理する市内四カ所の収容所で、タンジュン・プリオク港からの出発を待った。当時、島外へ出る者はすべて、乗船前にチフス・コレラ・赤痢の三種混合ワクチンの接種を義務づけられていた。 
 今回の事件は、そのうちクレンデル収容所において、一九四四年夏にワクチン接種直後に発生した惨事であった。実はそれ以前にも類似の事件が発生していたことがのちに判明するが、ジャワ島外(スマトラとボルネオ)へ送られた後の発症であったため、インドネシア人医療関係者には知らされず、ごく一部の日本軍関係者の間で処理され、一般に知られることはなかった。しかし一九四四年八月六日に起こったクレンデル収容所のケースは、ジャカルタにおいて初めて患者が発症したことや、被害者が医科大学付属病院に搬送されて、インドネシア人医師の目にもさらされたことから明るみに出た(4)。
 この事件について日本軍からは官報や新聞でも何の正式発表もなかったが、少なくともクレンデル収容所での患者発生自体は、関係者の間では密かに噂に上っていた。しかしジャワ島外でも同様の事件が発生していたという事実は、今日に至るまで、インドネシアでも日本でも関係者や歴史家の間でまったく知られていない。そのため破傷風患者の集団発生は、あくまで「クレンデルでの事件」としてのみ認識されている。そしてロームシャの被害については、その数も含めて、詳細はいっさい秘密にされたままになっている。 
続く

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