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関東軍ー在満陸軍の独走--2005年刊 ⓶ [軍事]

ノモンハン.jpg関東軍  在満陸軍の独走
著者 島田 俊彦 /[シマダ トシヒコ] 
出版者 講談社 講談社学術文庫 1714
 
新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館
 B/210.7/シマ
関東軍成立から満州事変,ノモンハン事件,「関特演」と1945/8/9ソ連軍侵攻による壊走までの通史.防衛庁戦史室と外務省外交文書室に残された資料を利用し、1965年刊の労作
まえがき  より
関東軍の実態については意外に知られていない。それが今回私が防衛庁戦史室その他の多数の資料にもとづいて、関東軍の歴史的指標と認められる大事件を中心に、この軍隊の歴史と独走の実態を実証的に画き出そうとした最大の動機
関東軍の「関東」というのは、中国の山海関サンカイカン以東一帯―つまり奉天ホウテン•吉林キツリン・黒竜江コクリュウコウ三省に対する名称である。いい換えればこれは満州の別称。この名称を、そのほんの一部分にしか当らない遼東リヨウトウ半島の先端に用いて、これを「関東州」と名づけたのは、一八九八年以来ここを中国から租借していたロシア
日本はー九〇五年、日露戦争の結果として、この租借権をロシアから譲られると同時に、中国側の抗議を退けて、このいささか誇張的な呼び名をそのまま踏襲した。そしてやがてはこの租借地に根拠をおく、駐箚チユウサツ一個師団、独立守備隊六個大隊、計約ー万の兵力をもつ日本軍にも「関東軍」という名を与えたのである。
 
日露戦争後、日本はむしろ北方の脅威から次第に解放されていき、一方関東軍の鼻先では、辛亥シンガイ革命 (一九一一年、清最後の皇帝溥儀が退位し、清国は滅亡。共和制の中華民国が誕生。)が発生し、それから蔣介石シヨウカイセキの北伐ホクバツ完成 (一九二八年、蔣介石が中国国民党の国民革命軍を指揮し北洋軍閥打倒。蔣介石の国民政府が中華民国唯一の政府になった。 )までは、内戦に次ぐ内戦の混乱があった。それをみて関東軍はここぞとばかり中国の内戦に干渉し、それを通じてかねてからの満蒙マンモウ進出の夢を実現しようと計った。その窮極キユウキヨクの目的は、満州を手に入れて、ソ連に対する備えを固めることだった。満州事変の結果として彼らが作った満州国 (ー九三二年建国 )は、そうした意味での唯一で最大の成果であった。

ー九三六年、関東軍は、ようやく極東の軍備を固めつつあったソ連軍と直接国境線で向い合うことになった。以後「ノモンハン」事件が代表する国境紛争事件、打倒ソ連軍を目ざして行なわれた「関特演カントクエン」という名の大兵集中など、一連の対ソ事件をひき起しつつ、第二次大戦末期になって、ソ連軍の進攻の前に手もなく完敗し、関東軍はその四十年の歴史の幕を閉じた。
続く


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