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脚気ー小説「奏鳴曲 北里と鷗外」より㈡  [国家医学・帝国医療・看護学]

奏鳴曲 北里と鷗外  著 海堂 尊 カイドウたける 文藝春秋 社刊行
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163915005  新潟市立図書館収蔵

内容紹介   4章 p062
 人類が最初に対処法を見つけた伝染病は天然痘だが、原因菌は発見されていなかった。
 つまり近代医学は「理由は不明だが、経験則で見出した有用な予防法」から始まったのだ。
 天然痘は、水疱が内蔵に広がり肺損傷を起こす。致死率は高く三割が死亡する。
 天然痘予防法の種痘を確立したのはエドワード・ジェンナーだ。
 英国の田舎の開業医だったジェンナーは、農場勤務の女性に牛痘に罹ると天然痘に罹らないという言い伝えを教わり、一七九六年五月十四日、八歳の少年に牛痘を接種した。少年は典型的な症状が出た後に回復し以後、天然痘に罹らなかった。
 その結果を王立協会に報告するが無視され、一七九八年から一八〇〇年に三冊の小冊子論文を自費で刊行したため、ようやく英国アカデミーは彼の業績を認めた。
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 幕末の動乱期、軍備と医学は手を取り合い西洋化を進めた。そして日本の医学は、種痘と共に近代化した。最初に導入された西洋医学が、「種痘」だったのである。
「種痘」とは「天然痘=痘瘡」の、弱毒生菌によるワクチン接種による予防法だ。
 牛痘の膿に含まれるウイルスは長旅の間に感染力を失い、なかなか日本に伝わらなかった。だが嘉永二年(一八四九)、蘭医モーニケがバタビア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ領時代の呼称。)から長崎に痘苗をもたらした。
その一部を京都の蘭医、日野鼎哉が入手し、福井の笠原良策と大阪の緒方洪庵に分苗する。
(大阪の薬種商、大和屋喜兵衛が世話方になり資金援助して、子供の腕から腕へと牛痘苗の植え継ぎを行う除痘館と西日本を中心にワクチンを分与する分苗所を作る。分苗所の数は49年11月から5カ月後には西日本を中心に64カ所に達した。)

翌々年十月に福井にも除痘館が設置された。
江戸では皇漢医の医学館が足を引っ張ったため、遅れること七年後の安政五年(一八五八)洋方医八三名の私的拠金により「お玉ヶ池種痘所」が設立された。
 種痘普及により皇漢医は衰退し、西洋の兵学や武器が知られ。蘭学は倒幕連動と結びつく。[[現代の内科医領域でも衰退したのだろうか??]]
 明治四年に種痘所は廃止され、明治六年三月、欧米から帰朝した長与が文部省医務局長に任命された時に、牛痘種継所を設立した。[[廃止されていた明治4~6年の間の種痘は誰が誰の負担で行ったのだろうか]]

 種痘は衛生行政の柱となり以後、牛痘種継所の所長職は弘田長、中浜東一郎、北里柴三郎という、日本の衛生学の勃興を支えた面々に受け継がれていく。
 日本の衛生学は、内務省衛生局、陸軍軍医部、東京大学医学部が三つ巴で絡み合い、天外に向けて伸びていく。各々の頂点にいたのが北里柴三郎、森林太郎、緒方正規だ
 その三名が一堂に会した明冶十一年四月のこの日は、日本の衛生学か生まれた日だ、と言っても差し支えないだろう。
 続く

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