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「帝国」ロシアの地政学---⑤ [ユーラシア・東西]

「帝国」ロシアの地政学  「勢力圏」で読むユーラシア戦略
著者  小泉 悠   コイズミゆう
出版年 2019.7 出版者 東京堂出版 ISBN 978-4-490-21013-2
新潟市立図書館収蔵 NDC分類(9版) 319.38
著者紹介  1982年千葉県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了(政治学修士)。東京大学先端科学技術研究センター特任助教。専門はロシアの安全保障政策、軍事政策等。
第1章-⒉ワイマール・ロシア-・[西欧志向]の挫折
 では、アイデンティティと癒着した地政学とは具体的にどのようなものだろうか。米国の力-ター政権で安全保障担当大統領補佐官を務めたズビグネフ・ブレジンスキ-は、この点について次のように述べている。
「(前略)ロシアでは(中略)主要国のぽとんどでは提起されることすらない疑問をめぐる議論が、公の場でも私的な場でも沸騰している。ロシアとはなにか、ロシアとはどの範囲をさすのか、ロシア人とはなにを意味するのかが議論されているのである。
 この問いは、議論のためのものというにはとどまらない。この問いにどう答えるかで、地政上の政策が変わってくるのだ。ロシアはロシア民族だけからなる民族国家になるべきなのか、それとも、イギリスがイングランドだけではないように、ロシアもロシア民族以外も含めた帝国国家になるべきなのか。ウクライナの独立は一時的な逸脱だとみるべさなのか(そう感じているロシア人が多い)。ロシア人であるためには、ロシア民族(「ルスキイ」)でなければならないのか、それとも、民族の上ではロシア人でなくても、政治的にロシア人であることができるのか(後略)」
 つまり、「ロシア」の範囲を「ロシア的なるもの」の広がりに重ね合わせるのか、「非ロシア的なもの」をも含むのかによって、ロシアの国家像は大きく異なったものとならざるを得ない。また、前述のように「ロシア的なるもの」は新たに生じた国境にまたかって存在しているのだから、国境内の「ロシア的なるもの」だけを「ロシア」の範囲と考えるのか、国境など無視して「ロシア的なるもの」はすべて「ロシア」なのだと考えるのかという点でも、描かれる国家像はまた違ってくるだろう。
 さらに、これはロシア一国の問題に留まらず、周辺諸国との関係にも直接影響してくる問題である。「ロシア」の範囲自体に議論が存在するということは、周辺諸国との境界をどこに引くのか、あるいは「周辺諸国」なるものが独立した主体として存在するのか否かなどが必然的に議題とされなければならなくなるためだ。
 ヴァージニア工科大学教授としてロシアと旧ソ連諸国の関係を研究してきたトールは、このようなアイデンティティと地政学の癒着によって生じた国家像を、西欧志向、帝国志向、大国志向の三つに大きく類型化して分類した。
 第一の西欧志向は、初期のエリツィン政権期においてコズィレフ外相らが推進した西側協調路線に顕著である。ここでは、米国を中心とする西側諸国の価値や制度への統合を志向しつつ、ソ連崩壊によって生じた新たな国境を尊重し、旧ソ連諸国を独立した主権国家として扱う傾向が認められる。つまり、近代国民国家システムの基礎となったウェストファリア的秩序が旧ソ連内外の別なく適用されることになる。
 だが、西欧志向の対外政策は短期間で放棄された。ソ連崩壊の前後、ロシアはワルシャワ条約機構の解体、在欧ロシア軍の撤退などによって西側との軍事的対決姿勢を放棄したが、対ソ同盟であったNATOはソ連崩壊後も解体されるどころか東欧社会主義国を飲み込み、旧ユーゴスラウィアではロシアの意見に耳を傾けることなく介入が行われた。この結果、西欧への統合を志向する限り、ロシアはその後を追う格下のパートナーとしかみなされない、という不満がロシアには磨積していったのである。
 一つの画期とみなされるのは、西欧志向派の代表格とみなされていたコズィレフ外相が1992年12月に行った「転向」演説であろう。ここでコズィレフは次のように述べている。
 「ロシアは外交政策の概念を修正せねばなりません……依然としてヨーロッパヘの仲間入りをすることには重点を置いています。しかし、我々の伝統というものがかなりの程度(主にというわけではないにせよ)アジアに基礎を置いており、これがためにヨーロッパとの和解には限度があるということに、我々は今やはっきりと気付いているのです……旧ソ連空間(中略)はポスト帝国の空間なのであって、この中でロシアは、軍事力や経済力まで含むあらゆる可能な手段を用いて自らの利益を守らねばならなくなるでしょう」
コズィレフの演説は、旧ソ連諸国との地政学的な関わりがロシアのアイデンティティをめぐる問題そのものであること、しかもそれが単純な西欧志向では割り切れないものであったことを明瞭に示していた。
また、ロシア軍事の研究家として知られる英エディンバラ大学教授のエリクソンは、1993年に概要版だけが公表されたロシア初の「軍事ドクトリン」が、極めて不完全ながら地政学的アプローチに基づくものであったことをロシアの軍事思想に関する研究から明らかにしており、1990年代初頭には早くも西欧志向のアプローチが求心力を失っていたことが窺われよう。
 他方、前述のブレジンスキーに言わせれば、西欧派はその見通しの甘さゆえに最初から挫折する運命を背負っていた。当時の荒廃したロシアが米国と対等のパートナーになれる筈は最初からなかった上に、彼らは、自分たちがかつでの東欧衛星諸国からどれほど恨まれているかを理解できていなかったからだ(この点はポーランドにルーツを持つブレジンスキーらしい視点と言える)。それゆえに、「全体としてみるなら、ロシアの失望も、西欧派の後退も、おそらくは避けられなかっただろう」とブレジンスキーは結論付けている。
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我々の伝統というものがかなりの程度(主にというわけではないにせよ)アジアに基礎を置いており、これがためにヨーロッパとの和解には限度があるの考えは、1920年代の「ユーラシア主義」の復活だろう
続く

タグ:ロシア
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