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古琉球 海洋アジアの輝ける王国--2019=その上 [中世・国内]

古琉球 海洋アジアの輝ける王国
【著】村井章介[ムライ ショウスケ]
出版社: KADOKAWA
角川選書 616
B6判: 18.8 x 12.8 x 2.8 cm/ページ数 413p
ISBN-13: 978-4047035799
発売日: 2019/3/28
価格 ¥2,376(本体¥2,200)
 
新潟県立図書館収蔵 資料コード 0010019309213  NDC分類(9版) 219.9

内容説明
世界に開かれていたのは日本ではなく「琉球」だった!13~17世紀の古琉球の時代、ボーダーレス海域でどのような歴史と文化が展開されたのか。琉球に残されたかな文字の碑文や『歴代宝案』などの外交文書、中国・朝鮮ほか、近隣諸国に残る史料などから総合的に検証。冊封体制論からはみだした古琉球の独自の事象を浮き彫りにする。同時代の日本を含むアジア世界の歴史のありかたに境界史から光をあて、その全体像に新たな視角を拓く。


目次
古琉球 海洋アジアの輝ける王国0_.jpg序論 古琉球から世界史へ
第1章 王国誕生前夜
第2章 冊封体制下の国家形成
第3章 冊封関係と海域交流
第4章 和/琉/漢の文化複合
第5章 王国は滅びたのか

著者等紹介
村井章介[ムライ ショウスケ]
1949年、大阪市に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。同大学史料編纂所助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授を経て、立正大学教授、東京大学名誉教授。専攻は日本中世史、東アジア文化交流史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


序論古琉球から世界史へ
古琉球史は何たっておもしろい
  「古琉球・こりゆうきゆう」とは「沖縄学の伊波普猷・いはふゆう・が造ったことぱで、一六〇九年(日本慶長一四年・民万暦三七年)に薩摩島津氏に征服される以前の琉球をさすI伊波の処女作にして代表作のタイトルも『古琉球』という〔伊洩二〇〇〇、原著は一九一一年初刊〕。
 古琉球の時代、琉球は日本の国家領域の外にあった。そのころの日本を現在の日本と区別して学問的にとらえようとするとき、何とよべばよいか。現在でも使われることばに 「内地」「本土」があるが、いずれも「内」「本」を優位とする階層性を含意する点で、学問用語としては好ましくない。
 ここでヒントとなるのか、琉球人とアイヌが自身および「日本」をどうよんでいたかだ。琉球人は、自身の「国」をウチナー、「日本」をヤマトとよび、それぞれの人は「ウチナーンチュ」「ヤマトンチュ」といった。アイヌのばあいは人と「国」の関係が逆になって、自身を「アイヌ」(人の意)「日本」人をシサム(なまってシャモ)とよび、それぞれの「国」を「アイヌモシリ」「シサムモシリ」といった(モシリは「土地」の意)。
 その広がりも性格も現在とは大きく異なる前近代の「日本」を、いちいちカギ括弧を付けて表記するのも煩わしいので、琉球を考察の対象とするこの本では、琉球語を採用して「ヤマト」とよぶことにしたい。


 古琉球時代の琉球は王国を形成してヤマトから自立した領土支配を実現し、中国を中心とする国際社会で日本・朝鮮・安南(ベトナム)・暹羅しゃむ(タイ)等の諸国と横ならびのメンバーシップをもっていた。中国王朝による冊封が被冊封国の独立性と背馳・はいち・するものでないことは常識だろうし、琉球国王が室町幕府の首長とのゆるやかな君臣関係に甘んじていたことも、琉球側の自発的選択によるものだったと考えられる。
 陸地面積でいえばケシ粒のような琉球が、大きな存在感をもった理由は、東アジアと東南アジアをつなぐ海の道の結節点にあって、しかも中国、朝鮮半島、ヤマトという早く文明化した地域から遠くないという、地理的要因か大きい。
 古琉球の姿は、六三六年に成立した『隋書』の東夷伝流求国条を始めとする中国史料や、『日本書紀』を始めとするヤマト史料、遺構や発掘遺物等の考古資料にも断片的にあらわれているが、継続的に推移か追えるようになるのは、十四世紀なかばすぎに、沖縄本島にあった三つの小王国(中山・山南・山北の「三山」)が明とのあいだにそれぞれ朝貢-回賜の関係を結んで以降である。
 明は倭寇わこう対策として施行した「海禁」によって、海外(とくに東南アジア)産品を入手するルートを閉ざしてしまっており、その代替として琉球を人手ルートの窓口に位置づけた。おりしも一四二〇年代に三山の分立を克服した琉球王国は、明の手厚い助成のもと、東南アジア諸国や朝鮮に船を送って手広く交易活動を展開し、獲得した産物を明に貢納した。こうして琉球は、一四五八年に首里城正殿に掛けられた鐘の銘文に「舟楫を以て万国の津梁・しつりよう・橋渡しと為す」と詠われるような、輝かしい季節を迎えた。これを「大交易時代」とよんでいる。そのピークを過ぎたころ、東南アジアで、ポルトガルを先頭とするヨーロッパ勢力と琉球人との接触かあった。


 いっぽう、言語を始めとする文化面で距離が近いヤマトとの関係は、大交易時代にあっては影が薄く、それも中央政府である室町幕府よりは、鳥津氏を筆頭とする西日本の大名、さらには倭寇勢力の一翼を構成する商人や武士、両国を往来した僧侶などによる交渉が中心だった。十五世紀後半以降、ヤマトや中国、さらにはヨーロッパの海上勢力(それらの複合体が「倭寇」である)が、「万国の津梁」の競争者としてあらわれ、琉球の繁栄の基盤を掘り崩すようになると、相対的にヤマトとの関係の比重が増してくる。とくに重要だったのかヤマト・琉球間の交通ののど元をおさえる薩摩との関係であり、その一定の帰結が十六0九年の事件だった。
 以上のような古琉球の歴史をひとことで特徴づけるなら、海によってつながれた広大な舞台の上で、多種多様な人や物や文化が混合・雑居する多種混合・ハイブリッドな世界ということになろうか。「単一民族国家」という言説を始めとして、大昔から「日本」が均一な空間として存在してきたかのような幻想はなお跡を絶たない。そんなのっぺらぼうな歴史観から脱却するための解毒剤として、私のようなヤマトンチュにとってこそ、古琉球を知ることの意味は大きいと思う。
 

そんな理屈はともかくとして、古硫球は何たっておもしろいのだ。日本をかたちづくる要素の多元性を雄弁に語ってくれるだけではない。日本なんか飛び越していきなり世界史とつながってしまう意外さがある。かと思えば、表層の激しい変化にもかかわらず基層文化が根強く残っていたりする。私が論じたことのある事例にかぎっても、鎌倉北条氏に臣従した薩摩武士の相続文書に沖縄島直前までの島々が記されていたり、中国文化の所産である石碑にかな文字で琉球の神歌が刻まれていたり、ポルトガル製のある地図ではJapam(日本)がLequios(琉球)という大地域の辺境にすぎなかったり、ごく短期間だが硫球国王が鳥津氏をふくむ南九州の武士たちを臣従させていたり……といった具合だ。

「日本」の広がりは自明でない に続く


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