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古琉球 海洋アジアの輝ける王国--2019=その下 [中世・国内]

古琉球 海洋アジアの輝ける王国
【著】村井章介[ムライ ショウスケ] KADOKAWA
角川選書 616 
ISBN-13: 978-4047035799
発売日: 2019/3/28
価格 ¥2,376(本体¥2,200)
 
新潟県立図書館収蔵 資料コード 0010019309213  NDC分類(9版) 219.9




序論 古琉球から世界史へ より


「日本」の広がりは自明でない

現代の日本人は、北海道から沖縄までが「日本」であることを、あたかも自明のことのように思いこみがちだ。しかし、いうまでもなく沖縄(硫球諸鳥および大東諸島)の施政権が米国から返還されたのは一九七二年のことであり、その後も南千鳥・竹鳥・尖閣諸島の帰属は、国際的には未解決のままである。一九四五年以前に遡れば、「日本」は満洲・朝鮮・台湾・南洋諸鳥を支配下においていたし、軍事占領地域となればもっと広がる。これは帝国主義時代の特異な状況だが、そこにいたる勢力圏拡大の起点は、ロシア船が千島や北海道の近海にあらわれた一七七八年以降の時期に求められる。
 それ以前、北海道以北では、渡島おしま半島南端部に居を構える松前氏が唯一の大名だった。
 「和人地」とよばれた松前藩の直接支配地はわずかで、その外に樺太・千島まで広がる「蝦夷地」に点在するアイヌとの交易拠点「商場あきないば」を、松前氏は家臣に知行として給与した。やがてこれは商場の権利をヤマトの大商人に請け負わせる形態へ移行する。これらの制度を通じて、松前氏以下の「和人」はアイヌを経済的に従属させていったが、なおアイヌは幕府-松前藩の領民となったわけではなく、蝦夷地は「無主の地」とされた。それゆえアイヌは幕藩権力の国家的負担を負わなかったが、同時に和人の苛酷な搾取から保護されることもなかった。そのいっぼうでアイヌは、本州北部からユーラシア大陸東端部へと広がる交易世界を活動の場とする海洋民であり、東北アジアへ進出してきたロシア人とも交易関係を結んでいた。幕藩権力はアイヌがロシアの領民となりかねない事態を国家的危機ととらえ、それまでの「無主の地」扱いから一転して、一七九九年以降、松前藩の頭ごしに蝦夷地を幕領化する方向へ政策を転換させた。

古琉球・渡島おしま半島large.jpg

 朝鮮半島を目前にみる対馬藩は、釜山プサンの「倭館」を拠点に朝鮮との外交・貿易を担い、府中(現在の厳原いづはら)の以酊庵いていあん・には京都五山僧が輪番で詰めて外女文書を取り扱った。この体制は、中世の「三浦さんぽ」(薺浦チエポ・富山浦プサンポ・塩浦ヨンポ)や梅林寺・西山寺さいざんじ、の外交機能をひきつぎ、幕藩制に適合させたものである。中世には対馬島内の諸勢力が朝鮮国王から官職をもらったり(受職人)、朝鮮から外交文書に捺す図書〔印章〕を受領して貿易権を与えられたり、といった姿が見られた。むろんいっぽうで、古代には国・郡が設置され、中世には守護・地頭がおかれたように、日本の領域内という性格を明瞭にもっていた。
 列島の西南端では、一六〇九年、独立国だった琉球を、幕府の承認をえた島津氏が征服し、奄美群島を薩摩藩領に割き取った。沖縄/鹿児島の県境が沖縄本島/与論島のあいだにあるのはその結果だ。沖縄本島の那覇には薩摩から派遣される琉球在番奉行がおかれて琉球の国政を監視し、土地制度面では琉球をふくめて薩摩藩の石高が算出された。
 こうした従属状態のいっぼうで、沖縄本島以西は薩摩藩領に編入されたわけではなく、国を代表する王とそのもとでの国家機構は健在で、明ついで清との問には皇帝を君とし国王を臣とする冊封関係も継続した。中国から見れば、琉球は朝鮮等と同等の被冊封国だった。このような半独立状態は、琉球側の希望をうけいれた要素もあったが、基本的には、中国との情報チャネルを欲していた幕府と、「異国」を従える雄藩という体面を保ちたい薩摩藩と、双方の思惑が生み出したものだった。


 江戸幕府は、右にみた三つの列島周縁で生じる異国・異域との関係(広義の外交)を、松前、対馬、薩摩という三つの藩に「役」として委ねていた。三地域における外交のあり方は、それぞれに中世以来の伝統を色こく反映して、大きく異なっていたが、藩権力への委任という共通性に着目すれば、「対外関係の領主制的編成」と規定できよう。これに対して長崎における外交・貿易は、長崎奉行以下の幕僚が指揮し実務を長崎の町人に委ねるという形態をとり、しかもヨーロッパ勢力の出現以前に遡る歴史をもたない。これを三地域と対比して、「対外関係の官僚制的編成」と規定することができる。近年の近世史研究では、右の松前、対馬、薩摩、長崎を幕藩制国家の「四つの口」と総称しているが、各「口」における外との閥係のありようは、安易な一般化を許さない多種混合ハイブリッドな性格をもっていた。
 周縁部に右のような地域をもつ前近代の「日本」を、近代的領土理念にあてはめて、どこからどこまでと空間的に定義することができるだろうか。それは「外」と峻別された均質な空間ではなく、その内部に孕まれた諸地城-たとえば中世で「東国」とか「鎮西 (九州)」とかよばれたような―も、現代の都道府県のような、均質な「日本」の一部を切りとった空間ではなかった。

 
四つ口、.jpg


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