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近代日本の阿片政策と朝鮮人ー権論文覚え書① [満州・大東亜]

権 寧俊(クォン ヨンジュン Kweon,Youngjun)著の「植民地朝鮮におけるアヘン政策」(アジア遊学260・新潟市立図書館収蔵本)より 覚え書


1840~42年のアヘン戦争後、清国ではアヘンの生産や輸入が合法化され、その影響が朝鮮にも及ぶことになった。朝鮮では、開港前には腹痛などの赤痢の治療薬として知られていたアヘンが、開港期には清国商人によって流入・拡散されて吸煙者が増加し、日本植民地期にはアヘン生産地または、アヘン供給地にまで転落してしまつた。本稿ではこれらの問題を実証的に考察する。
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朝鮮伝統社会では「阿片」その原料「ケシ・罌粟」は単なる農家で栽培されている腹痛などに用いる薬剤の一部。
 しかし、ー八七六年に朝鮮が日本との「日朝修好条規」締結により開港し、一八八二年に清国と「商民水陸貿易章程」 (以下『章程』)を締結すると、朝鮮においても清国の商人によってアヘンが流入するようになり、アヘンの吸煙問題が発生した。また、ー九一〇年に日本の植民地になってからはアヘン生産地または、アヘン供給地へ転換され、朝鮮におけるアへン問題は深刻化していった。
 アヘン戦争後、戦争で敗退した清国は、イギリスの要求によりアヘン輸入を合法化しなければならなかった。その結果一八四二年以後、清国国内でのアヘン生産は急速に拡大し、「品質」も向上していった。また、アヘン戦争1840~42年の前には約二〇〇万人いたアヘン吸煙者が、戦争後の一八五〇年には三〇〇万人に増加し、一八八〇年には二〇〇〇万人までに増えた。これは 当時の清国人口の五パーセントに達しており、アヘン問題は清国社会の深刻な問題となつたのである。
 これは清国だけの問題にとどまらず、隣国朝鮮にもその影擲を及ぼした。 朝鮮へのアヘン流入に対する憂慮は朝鮮が開港される時期からより深刻化していった。一八八二年・明治15年十月には朝鮮と清国とのあいだに『章程』が締結され、清国の商人たちの朝鮮における経済活動が許認された。それによりアヘンが清国商人によって朝鮮に持ち込まれることになった。
 『章程』には両国商人によるアヘンの取引活動は固く禁ずると明記されていた。第二条 (領事裁判権の規定 )では、 朝鮮において清国人が罪を犯しても、それを朝鮮側が処罰することはできず、清国側が審議・判決することになっていた。清国商人たちはこれを利用して朝鮮半島の全土にわたってアヘン取引を進めた。
 アヘン戦争後、アヘンの輸入および清国国内での生産消費(吸煙)が事実上合法化され、朝鮮においてのアヘン禁止策は滴国商人にとっては形式的なものにすぎなくなった。清国人は自国でのアヘン吸煙の習慣を捨てずに朝鮮に来た。清国人のアヘン吸煙する姿は朝鮮人の好奇心を誘発し、朝鮮人吸煙者を増加させる原因ともなった。
続ける



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