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水俣病闘争史 - 2022年刊・・新潟水俣病の扱い① [新潟水俣病、資料]

9784309228624.jpg水俣病闘争史

著者 米本 浩二 /よねもと こうじ  
出版者 河出書房新社 
出版年 2022.8
ページ数 229p
ISBN 978-4-309-22862-4
新潟市立図書館収蔵 豊栄館  /493/ヨ
内容紹介 最もラディカルで大規模な公害闘争として知られる水俣病闘争は、どのように生まれ、全国的な闘争に展開していったのか。渡辺京二や石牟礼道子の知られざる運動へのコミットとともに、水俣病闘争の歴史をわかりやすく描く。
内容、感想
新潟水俣病を第2章で扱っている。【「ふかい、亀裂のような通路が、ぴちっと音をたてて、日本列島を縦に走ってひらけた。」(苦海浄土 わが水俣病)眠らされていた水俣が目覚める。】とあるが、目覚めさせた人は【新潟大の椿忠雄教授】があげられている。もう一人の立役者、新潟勤労者医療協会の木戸病院の斎藤恒医師が上がっていない。
椿教授は、東大で研究者時代に水虫(白癬)治療の有機水銀薬によるメチル水銀中毒の患者を診察したことがあるので、1965昭和40年1月18日に診察したときすぐに診断できた。それは、5月31日に新潟県に「阿賀野川下流沿岸に多く発生」と報告され、6月12日に新潟県と教授が公表した。その前に【母校の新潟大学の医師から有機水銀中毒症が発生していることを知らされていた。】と斎藤恒医師は記している。(『新潟水俣病』斎藤 恒 新潟市立図書館収蔵 中央ホンポート館、豊栄館、山ノ下館 ほか14館)
 
斎藤医師は、1964昭和39年6月16日の新潟地震による被災の健康診断で阿賀野川流域を診ていた。彼が勤めていた、勤労者医療協会・沼垂診療所の取り扱い患者数は約1万人に達してるから、阿賀野川流域の神経疾患の患者は、察知してたろう。
 
そして、6月12日に新潟県は公表する。上流にあった昭和電工・鹿瀬工場のアセトアルデヒド工程から流れ出た有機水銀の中毒とみられた。昭和電工と通産省は否定。12日の公表【直後、医学生・新日本医師協会新潟県支部・市水道労組・新潟県勤労者医療協会・新婦人・新潟医労協などによる学習会を開き、その場で新潟県民主団体水俣病対策会議(民水対)の準備会がつくられ】8月25日に正式に発足。民水対の中の勤労者医療協会・沼垂診療所を通じた働きかけで、患者団体「阿賀野川有機水銀中毒被災者の会」(後の新潟水俣病被災者の会)が1965昭和40年10月7日に結成された。
そして公表から2年後の1967昭和42年 6月12日、に昭和電工を相手に、損害賠償を求めて、被災者の会の患者提訴。新潟水俣病第1次訴訟の提訴である。本書・水俣病闘争史は「四大公害訴訟の先駆け」と評価しているが、、勤労者医療協会・沼垂診療所の斉藤恒医師を取り上げないと、熊本県水俣が遅れたのか、遅れた事情が見えてこない。
続く
 
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