SSブログ

仏典はどう漢訳されたのか [隣の異教]

藤原書店 月刊PR誌『機』2022年8月号 より  赤字はニジヤ挿入

202208-186x300.jpg

歴史から中国を観る32
 仏典はどう漢訳されたのか
宮脇淳子  みやわき・じゅんこ 
紀元一世紀の後漢に始まり、南北朝から隋唐を経て北宋960~1127まで、およそ九百年つづいた仏典の漢訳は、鳩摩羅什くまらじゆう梵: Kumārajīva [クマーラジーヴァ]、344 - 413年と玄奘げんじょう、三蔵法師602年 - 664年という、旧訳と新訳を代表する二大巨頭以外にも、数多くのインド人訳経僧と、それにまさる数の漢人仏教僧が従事したことは言うまでもない。
船山徹ふなやまとおる『仏典はどう漢訳されたのか』 (岩波書店2013年 ISBN9784000246910)によると、漢訳は現代のわれわれが漠然と想像するよりもはるかに速やかになされた。いくつか例が挙がっているが、三世紀の酉晋せいしん の 竺法護じくほうご訳『正法華しょうほっけ経』十巻は翻訳に二十日程度しかかかっていない。五世紀初の鳩摩羅什訳『大品だいぽん経』と称される『摩訶般若波羅蜜経』(まかはんにゃはらみつきょう)の一巻分の翻訳にかかった日数は九〜十日程度で、訳了後の佼正まで含めても十五日ほどである。
漢訳の作成には複数の人々が集まって役割を分担したが、そうした翻訳作業を行なう場所や施設のことを「訳場やくじよう」といった。
 「訳場」には二種あり、隋581-618年ごろを境に、大人数が参加した会議としての翻訳から、閉じた空間で専門家集団のみが迅速に作業する翻訳工房へと変化した。
 経典講義を伴う多数参加型の代表は鳩摩羅什の訳場で、数十人、ときには千人以上の僧侶や在家信者が集う、一種の法会ほうえ(仏教儀礼)だった。こうした大人数による経典講義を伴う形の訳場では、分業体制はあまり細分化していない。「訳主やくしゅ」という訳場の主導者と「筆受ひつじゅ」という筆記係の別があるにすぎない。
 七世紀の隋唐から十世紀の北宋時代、少数の専門家集団のみによる細かな分業体制の確立した訳場では、原則として聴衆は存在しない。北宋時代の「訳経儀式」の記録『仏祖統記ぶっそとうき』によると、まず「訳主」が梵語ぼんごサンスクリットの文を口で述べ、「証義」と「証文しょうぶん」の両役が誤りがないか点検する。「書字の梵字僧」が梵語を漢字で音写し、「筆受」が梵語を単語レベルで漢字に置き換え、「綴文ていぶん」が語順を入れ替えて有意味な漢文とする。このあと「参訳さんやく」「刊定かんてい」「潤文官じゅんぶんかん」が順に検討して語句の意味を確定したのである。
ニジヤ感想 尼僧・女性は参加していたろうか


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

Facebook コメント