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韓国半島北部、北朝鮮じゃがいも栽培 -植民地時代-三浦洋子氏の論文より [ユーラシア・東]

千葉経済論叢 第40号 2009年刊行
北朝鮮じゃがいも栽培への日本人の関与― 植民地時代と2000年代 ―
三浦 洋子 (みうら ようこ 千葉経済大学准教授)
 より覚え書き
 83頁(2)植民地時代のじゃがいも栽培、「蘭谷機械農場」(注8)  
 植民地時代、現在の北朝鮮江原道淮陽郡 蘭谷に1000ヘクタールの「蘭谷機械農場」(1920年~1945年)は開設された。当農場は、愛知県の地主達が興した愛知産業株式会社が資金を提供し、第一次世界大戦で捕虜になって名古屋収容所にいたドイツ人たち(注9)と日本人とで経営され、「ドイツ式有畜畑作農場」として当時、画期的であった。
(注9)名古屋俘虜収容所のドイツ人たちは、当初北海道へ移住して、ドイツ式有畜畑作農業を行うことを希望したが、土地の問題で蘭谷へ渡ることになった。5人のドイツ人たちはいずれも教育レベルが高く、農業や商業、手工業を専門としている集団であった。
 蘭谷は、北朝鮮江原道の海抜650mの高原地帯の分水嶺で、風が強く、冬は長く、12月から2月には零下20度以下にもなり、降雪もかなりあった。さらに7,8月には約20日雨季があったが、年間降雨量の7割程度の、一度に大量の雨がふった。土質は悪くはないが、火田民による焼畑農業で放棄された土地であったため、地力に乏しく、大きな岩がごろごろしていて、農場建設に先駆けて除石作業を行わなければならなかったが、それには莫大な費用を要した。採取した岩石は道路や施設の建設に利用し、また風が強いため周囲には防風林も植えた。
】江原道(カンウォンどう、朝鮮語チョソングル表記:강원도〔カンウォンド〕)は李氏朝鮮の行政区画、朝鮮八道の一つ。現在の大韓民国(南)と朝鮮民主主義人民共和国(北)にまたがる江原道(北と南)を合わせた地域
日本海に面し、景勝地である金剛山がある。【
韓国・北朝鮮江原道金剛山pWi、.jpg
 「機械農場」という名前の通り、ドイツから農業用機械を多数導入したが、この費用が後々まで経営を圧迫した。しかし荒地の開墾から、播種、収穫までを、厳しい気候条件の中、その適期に迅速に行うには、高価ではあるが非常に効率的であった。中でもドイツ製の揚水や製粉用に使用した「大型風車」は後に当農場の名物となったほどである。こうして作付け面積は1921年の63町歩から10年後には196町歩と3倍強にまで拡大した。さらに農産物や家畜は、ヨーロッパや日本から新品種を導入したり、在来種との掛け合わせなども行うなど品種改良や純粋種(種苗)の育成や販売も目指した。
 農場の経営方針は次の4つであった。
 ① 畜産を主として飼料の自給自足を計ること
 ② 堆肥を増産し、地力を向上させること
 ③ 農場は孤立せず、近隣の農村との交渉を進めること
 ④ 地域の特産物の加工を工夫し、将来農場の資源とすること
 畑は連作障害をなくすため、4分割の輪作体系とし、ここで食料および飼料を栽培し、牛・豚・羊などの家畜を飼育してその糞尿を堆肥として畑に還元させ、そこから生産されたじゃがいもやライ麦、生乳、豚肉、羊毛などをパンやハム・ソーセージ、牛乳やホームスパンに加工して販売するといった、「循環型農業」を目指した。
 当初、農場はドイツ人が参加した経営であったため、彼らの主食であるじゃがいもを確保する、ということもあり栽培に着手したのだが、「ドイツ人のじゃがいもに対する執着は日本人の米に対するそれと同じ」というわけで、その品質や栽培法については大変熱心であった。
蘭谷の在来種はあるにはあったが貧弱で、ヤンチー(赤)、ヒヤンチー(白)の2種だけであった。
ただ、当地はじゃがいもの結実がよく、交配種をつくるのには最適な土地であったから、ドイツ人たちは品種改良に力を注ぎ、品質形状ともに優れて多収穫な食用と飼料用じゃがいもつくりを目指し、数十種類の品種を作った。
 品種の淘汰選別は次のように行われた。まず、種イモは60~80gの鶏卵大のものを選び、いったん原種圃で育成し、そこで固定したものだけを翌年試験圃に移し、ここで発育良好なものを一般圃場へ移して年々更新していった。
 その成果は試験地ではヘクタール当たり30トン、一般圃場でも10トン以上の単収をあげている。こうした中から優良で多収穫なものを5種類選択し、「蘭谷1号」~「蘭谷5号」と命名し、ドイツ産のミラビリス種も加えて本格的な栽培を開始した。
 各品種の特性は表6に示す。以後、この蘭谷いもは当農場の食料と飼料(豚用)であるばかりか、有力な換金作物となり、毎年20町歩~30町歩で150トンから200トン栽培されて、朝鮮内はもとより、日本や大連、天津、青島などからも注文が来るほどであった。
韓国・じゃがいも品種p09、.jpg
  
 さらにこれらのじゃがいもを朝鮮各地で栽培してその収量を確かめるため、朝鮮総督府農林局に依頼して、各道の種苗場で 1931年と1932年に蘭谷いもの試作を行っている。結論としては、在来種に比べて、蘭谷イモは優良であり、種イモは蘭谷イモに更新したほうがよいことが明らかとなった。 
 植民地時代、朝鮮では当初、図1に示すように、じゃがいもの作付け面積は2万ヘクタールであったが、その後1920年代には7万ヘクタールを超え、30年代には9万ヘクタールから12万ヘクタールと大きく増加した。ただし単収はそれほど大きく伸びず、ヘクタール当たり5~6トンで推移し、7トンを記録したのは1932年のたった1年だけであった。
韓国・じゃがいも生産量p10、.jpg


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