SSブログ

映画・無辜なる海 ちらし 1984年 [新潟水俣病未認定患者を守る会]

「阿賀に生きる」製作のきっかけとなった「無辜なる海」のチラシ
「阿賀に生きる」佐藤真監督はこの映画では助手。この映画の新潟連続上映で「阿賀に生きる」製作の基盤が出来た。

agani_0009.JPG

言葉・笑顔・暮らし・夢・たたかい。
これは不知火海と共に生きる人々をみつめた長篇ドキュメンタリーです。

 すべては、チッソ水俣工場のタレ流した有機水銀に始まる。不知火海にも、この海と共暮らす人々にも、これほどまでに破壊されねばならぬ因果も理由も何もない。無辜(ムコ・何のつみもない)の民、無辜なる海が、未だ消えぬ毒に侵され続けている。

 不知火海に無数に浮かふ天草の島々、漁業ひとすじで暮らしをたてている人々、それ故に汚染から免れることはできない。
 その島々の一つ、御所浦町、横浦島。この島に往む浜本さん一家は、もう長い間水俣病特有の症状を訴えていたが、申請は親子三人とも78年ときわめて遅く、娘の真美さんは生まれた時から寝たきりの子である。母マリ子さんは、真美さんにつきっきりのため、父文則さんは一人で出来る一本釣りに仕事を変え、月に二回は遠く上天草の病院まで舟で通院する日々である。

「無辜なる海」
魂の凝視

この映画を撮る青年たちは、カメラをまわしながら映画を発見してゆくようなみずみずしさがあふれている。描かれているのは、副題が示すごとく有機水銀に冒された人びとの困難な生活ぶりなのだが、なぜいま水俣なのかと問う者に、映画は、水俣には終わりがない、と直截(ちょくせつ)に語りかけている。
 水俣病の実態をめぐっては、すでに土本典昭の『不知火海』を始めとする一連の優れた作品が70年代に撮られているが、『無辜なる海』の特質は、先輩の映画人たちの姿勢を継承しながらも、80年代にふさわしい日常性の鏡に公害問題を反映させ、その重大さを、ゆるやかな時間の移動とともに、じっと見すえた点にある。その結緊、見ているわれわれ自身が、被写体となった水俣の人びとの睡(ひとみ)によって見つめ返されているような緊張感が漂ってくる。

 読売新聞より抜粋
1983年11月14日

 水俣病患者の
 姿に厳粛な感動

 「無辜なる海」は若いスタッフがハ.年の夏から約一年間、水俣に住みついて患者さんたちの日常をとらえたドキュメンタリー。感情的にならず、怒りを抑えて業病と黙々と闘う患者さんの姿を映す姿勢には共感を感じる。おそらく若いスタッフは、水俣病とは何かということより、病気と共に生きている患者さんの現在の姿そのものに心うたれてフィルムを回しつづけたのだろう。病気のため村八分同然になったことのつらさから、二度も娘を連れて自殺しようとした、と当時の苦しさを語る老婆を、カメラをまわしっぱなしにしてとらえたところは厳粛な感動をおぼえる。
 毎日新聞より抜粋
1982年11月14日
       評論家 川本三郎


 水俣から北へ約30キロ、岬に囲まれた静かな漁村。この女島(めしま)部落に住む小崎さん一家は、8人中6人が水俣病に認定され、長男の達純(たつすみ)さんは、生まれながらの胎児性水俣病患者である。青年期にたっした達純さんは、好きな歌のことや、両親への思い、そして「世界の人達に、水俣病のことを本に載せて、例えば、飛行場に本を置いて世界の人達に見せるように・・・ 」と22歳の夏に語ってくれた。

agani_0013.JPG


 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

Facebook コメント

トラックバック 0