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中露の関係 《歴史から中国を観る41》より [ユーラシア・東]

歴史から中国を観る41 (機 №374・藤原書店・掲載)宮脇淳子著(みやわぎ・じゅんこ/東洋史学者) より


 一六八九年のネルチンスク条約で、ロシアは黒龍江(アムール河)から完全に閉め出されてしまった。しかしそのあとロシアは清の情報を精力的に収集するようになり、一七二七年のキャフタ条約によって北京常駐が認められた正教伝道団には、満洲語と漢語を学ぶ留学生が随行した。
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 清は、雍正ヨウセイ年間(1723-35)まではロシア情報をかなり積極的に収集していたが、一七五五年に「最後の遊牧帝国」ジューンガルを滅ぼし、一七五九年、その支配下にあったタリム盆地のオアシス諸都市を征服したあとは、気がゆるんだのか、口シア諧を学ぶ実務家も出なくなった。
 一八四〇年に始まるアヘン戦争に負けた清は、イギリスに香港を割譲し、一八五七年に始まるアロー戦争[第2次アヘン戦争]では、英仏連合軍に広州を占領された。清が南方で英仏の圧力を受けていた間、もっとも利益を得たのはロシアだった。
 一八五四年、クリミア戦争が始まると、英仏海軍の攻撃を恐れたロシアは、清から許可のないまま、一千人の兵を載せた船団を黒龍江下流まで航行させ、沿岸に植民したが、太平天国の乱[1851年から]に忙殺されていた清は、これを黙認してしまった。
 味を占めたロシアはヽそのまま黒龍江沿岸の植民を進め、一八五七年には、勝手にアムール州と沿海州を設置し、事実上この地域をロシア領にしてしまう。
 一八五八年にアイグンで清とロシアの国境画定会議が開かれたとき、ロシアは黒龍江をイギリスから守るため、黒龍江左岸とウスリー江右岸をロシア領として認めるよう清に要求した。ロシア軍艦からは銃砲か乱射され、調印しなければ武力で黒龍江左岸の満洲人を追い払うと脅迫された満洲大臣は屈服し、ロシアは黒龍江の北六十万㎢を獲得した。
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  一八六〇年に英仏軍が北京の円明園を焼き払ったとき、咸豊かんぽう帝は熱河ネッカに逃げ、恭きょう親王は、英仏と講和が締結されたらロシアの条件を全部呑む、と斡旋を頼む体たらくだった。この北京条約で、沿海州四十万㎢がロシア領になったのである。(宮脇淳子みやわぎ・じゅんこ/東洋史学者)


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