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不安の時代の抵抗論 : 災厄後の社会を生きる想像力 [思考の型]

不安の時代の抵抗論 : 災厄後の社会を生きる想像力

不安の時代の抵抗論71ZmzETaBSL.jpg田村あずみ 著
--花伝社 
発売日:2020/06/08
--ISBN:978-4-7634-0931-7


大震災、原発事故、そして感染症―日常に突然生じた亀裂が私たちの生の脆さを暴くとき、希望を語りなおすことはできるのか?当たり前の生活すら困難になり、すべてに疲弊しきった現代人が「ここではないどこか」を想像し、抵抗への一歩を踏み出すことは可能なのか。3・11後の路上に現れた政治実践から、今、私たちに本当に必要な“手の届く希望”を探る。



◆目次◆

第一章 「抵抗」はなぜ想像不可能になったのか

第二章 「外部」を思考するということ

第三章 路上の想像力(1)名前のない個

第四章 路上の想像力(2)情動と反響

第五章 路上の想像力(3)運動の継承

第六章 抵抗の知性と希望


田村あずみ(たむら・あずみ)

1980年生まれ。

立命館大学国際関係学部卒業後、新聞社勤務を経て、英国ブラッドフォード大学大学院博士課程修了。

著書に「Post-Fukushima Activism: Politics and Knowledge in the Age of Precarity」(Routledge, 2018)。

現在、滋賀大学国際交流機構特任講師、立命館大学国際地域研究所客員協力研究員


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1章と2章では、この「抵抗の不可能性」について論じました。現代の私たちは、「敵」が見えなくなっているのではないか。先行き不透明な社会の中で、多くの人が生活の安定を得るために会社の理不尽な要求に従うなど、自発的に「隷従」しているような感じがある。敵は自分の外にいるのではなく、すでに自分の中に取り込まれてしまっているのが今という時代なのではないかと思うんですね。
 そういう時代には、抵抗や連帯の政治思想が生まれてきづらい。ぎりぎりの生活の中では、他者の苦しみに共感して連帯することが難しく、そこから絶望的な諦めや無関心、冷笑的な空気が生まれてきているのではないか。そこを脱して、今の時代に即した抵抗論を見つけ出していきたい。それも、誰かが提案する「答え」に安易に飛びつくのではなく、自分自身が感じている絶望の底にまずは降り立って、そこから希望を探求していきたい。そんな思いから、この本は生まれました。
 第3章以降では、2011年の福島第一原発事故以降の、主に首都圏での反原発運動を取り上げています。
 原発事故という災厄は、私たちの日常に突如生じた亀裂のようなものだったと思います。そしてその亀裂によって、既存の秩序や権威への信頼が崩れたとともに、そこから不可視化されてきた他者の存在が現れた。それは福島の人々や原発労働者、あるいは未来世代など、自分たちがリスクを押しつけてきた他者でした。そうした「他者」と自分の存在とがリンクしたときに、自己のアイデンティティが揺らぎ、それまでになかった新たな想像力が要求されるようになった。3・11後の反原発運動は、それへの応答の一つの形だったと思うのです。
 そして、事故の後、最初に人々を動かしたのは「情動」だったと思います。参加者へのインタビューでも、混乱や不安で「居ても立っても居られなかったから路上に出た」と話す人が何人もいました。混乱の中で生まれた情動が政治的な行動のモチベーションになり得るというのが、まず一つの発見だと思います。
 こうした情動と政治的行動との接続には、不寛容や無責任さが助長されるなどという批判もあります。しかし私には、路上で反原発を訴える人たちは、原発事故によって露呈した人間の不完全さを受け入れた上で、なお倫理的に行動するための技法を模索しているように見えました。その一つが、災厄という亀裂によって見えてきた「他者」から目を背けず「開いている」ことです。デモ参加者の語りの中には、「放っておいたら自分は事故のことをすぐに忘れてしまうから、戒めとしてデモで他者の言葉を聞く」というものがありました。自分の日常を完全に閉じてしまわず、たまにでも外に開くための場という意味も、デモにはあるのかなと。
また、「デモの頭数になりに来た」「世の中をよくするための礎になりたい」といった言葉も印象的でした。そして、そういう人たちの多くが、同時に「この場にいることが心地いい」「自分のためにやっている」という、自己満足とも取れる言葉をも口にするのです。
 ここには、自分の人生が周囲の環境に制約を受けることを受け入れつつ、なお「自分のために」行動するという、受動と能動が重なり合うような響きがあります。そこでの「自分」とは、独立した個というよりも運動の中に溶け込んだ「個」。そうした「溶けた個」として、社会に変化をもたらすことのできる自己に誇りや喜びを感じている──。それは今までにない、非常に特徴的なアイデンティティのあり方であって、そこにも倫理性があるのではないかと感じました。
 本の中でも引用したのですが、ジョン・ホロウェイという社会学者が、抵抗というものについて「道をたずねながら、われわれは歩く」のであって、そこには「正しい答えなどない、あるのは何百万もの実験だけだ」と言っています。その「何百万もの実験」を繰り返すことを可能にするような知性を、反原発運動の参加者たちは育んできたといえるのではないか。そんなことを考えながら、この本を書きました。
   より

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